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外房捕鯨株式会社

千葉県和田浦の捕鯨会社からのプレスリリースです。

釧路より、地震・停電のこと

 久しぶりに書きます。網走から一旦帰郷しましたが、5日に再び釧路へ。翌早朝に件の地震が起こり、我が宿の方も停電に。9日にようやく釧路の事業が再開されましたが、11日夕刻再び帰郷し、用事を済ませて13日に釧路へ戻り(?)ました。かくも短かい期間に、おまけに地震で厄介なことになったり、深夜まで仕事をしたり、といった状態で、千葉と北海道の間を何度も往復するのはやはり大変でした。まあ、外せない用事があるから、わざわざ北海道から短期帰郷する訳で、まあ疲れるのは致し方ないことです。

 手元には9月6日の北海道新聞の朝刊(つまり件の地震の直前に配達されたもの)があります。その記事によれば、5日朝に北海道を通過した温帯低気圧(元台風21号)の影響で、未だ相当数の世帯が停電していた模様。それらの世帯では6日朝の地震でさらに停電に苦しむことになった筈です。またその朝刊は、3尺玉花火で有名な「釧路大漁どんぱく」の特集を別冊付で、4日間に渡る様々なイベントを紹介されいます。このお祭りも延期になってしまいました。道東地区の揺れは震度4程度でして、大した物理的な被害はなかったのですが、やはり全道一斉に「停電」となったことが、人々の生活に大きな影響を与えることになりました。また当地は秋の観光シーズンを迎えていますが、地震の再発を恐れてか、観光客は極端に少ない様に思います。今回は札幌在住の我が兄貴分から教えて貰った、北海道の電力事情について少し書いてみます。

 今回の停電は、北海道の電力の総供給量の6割を占める苫小牧東部の発電所が地震に直撃された為、全道一斉に停電となりました。何でも「電気の使用量が供給量を超える状態に陥ること」は(詳細は知りませんが)発電・送電設備に深刻なダメージを与えるらしく、今回北海道電力はメインの苫東火力がダウンしてしまったので、全道一斉に停電させる様にしたそうです。プレスは一斉に北電の電力供給体制に問題があるとして、批判的な論説を展開。道内の少なくない地域は地震当日夜には停電が解除され、その翌日には一部を除き大半の地域に電気が供給された模様です。それは北電関係者の不眠不休の努力によって成し遂げられたものと推察しますが、プレスはそういったことを書くことは全くない。東日本大震災の際は福島の原発現場の皆さんの命を張った奮闘について、最近でこそ東電の経営陣の不甲斐なさを浮かび上がらせる構図で、一応は称賛されてはいますが、当時はそんな雰囲気ではなかった。唯一、イタリア政府(或いはその関連団体)が福島原発の現場の人々を「勇気ある人々」として顕彰したことが、あの陰鬱な空気に差し込んだ一筋の光明の様に感じた記憶が残っています。

 今回表面化した北電の「芳しからざる電力供給体制」には、やはり原発問題が関係している。北海道には積丹の泊に原発がありますが、これは現在停止されています。現在我が国では「原発は停まっているのが常識」といった雰囲気ですね。但し、今回表面化した北電の苫東火力への過大な依存体質は、この泊原発の停止に拠るものです。「だったら新しい火力をつくればいい。」ということになりますが、北電は民間の会社。採算の取れない設備投資は出来ない。そんな構図です。

 また、今回の地震の発生のすぐ後のTV番組で、ある専門家は「発見されていない断層のズレに拠って引き起こされた可能性」を指摘していましたが、断層というのはそんなもの。即ち日本国中に多数の未発見の断層が存在するかもしれない、ということになります。一方で我が友が言うには、「国の原子力規制委員会は、地質学者の見解が極端に強く反映される構造」との由。そもそも未発見の断層の存在を無視して、発見済の断層の位置ののみから、「原発立地の適合性」を判断する方法は不合理ではないか?それが我が友の論説です。

 今回の北海道の停電では、多くの人々が自身の生活が電力供給に、大きく依存していることを思い知りまhした。一方で、プレスは北電の供給体制の不備を批判するのみで、原発問題には触れようとしない。そんな姿勢は常日頃プレスが批判している「ポピュリズム」以外の何ものではないと思われます。プレスは「黙過の罪」を犯したくないので取材活動を活発に行い、公的機関に対しては情報公開を要求するのを常としていますが、原発問題についてはブレス自体が「黙過の罪」を犯している。そんな感想がありますね。

 一昨日、2年に一度のブラジルでのIWC会議が閉会。IWCについて、時折プレスの取材に応じた次第ですが、追って僕なりにの感想の様なものを書きましょう。それでは。






長月が初日 和田浦にて

 月末・月初の仕事を片づけるべく、網走での仕事を少し早く切り上げ、房州に帰郷しています。今日より長月(9月)。例年はこの時期に「残暑よさらば、ざまあ見ろ!」と嘯いて北に向かう訳ですが、今年はどうも勝手が違います。それでも、もう数日和田浦で過ごした後、再び北の街へ、今度はオホーツク海ではなく、太平洋岸の街に旅立つことになります。

 網走の最高気温は20℃程度でしたが、30日の帰郷日の東京の最高気温予想は35℃。相当に警戒しましたが、流石にお盆明けの小雨の漂う天候、朝晩は風は案外涼しく、夜は秋の虫の音が響いている。案外涼しい。そんな印象を持ちました。私自身も田舎に引っ込でから20余年の歳月を過ごしてきた訳で、房州の気候に慣れたのかもしれませんね。

 網走では結構忙しい毎日を送り、昼と晩の食事は弁当(=概して揚げ物)ばかりであったが、昨日久しぶりに寿司を食べたら無茶苦茶に美味しかった。網走はオホーツク海の幸に恵まれた街ではありますが、生憎ホテルの付近に適当な食べ物屋さんが少ない(僕が知らない)。天ざるを何度か食べには行ったものの、外食の機会は少なかった。追って太平洋岸の街に行ければ、今秋は秋刀魚が豊漁の由。ここ数年愉しませてもらった(寒ブリと同品質の)ブリを味わえるかどうかはわからないが、宿の近くに馴染みの食堂もあり、せいぜい袖を涼風に吹かれながら、北国の秋の味覚を楽しみたいと思います。

 網走では少ない休日を使って、ようやく道立北方民族博物館を訪れることが出来ました。当地での仕事の関係上頻繁に天気図を眺め、閉鎖海区由来の夏のオホーツク海の穏やかさを実感したものですが、博物館にて北極から北半球を眺めた地図を見て、今まで気づかなかったことが多数理解できた感覚があります。この地球上の海洋の内、「大洋」と言えるのは、太平洋(南北)と大西洋(南北)とインド洋のみ(強いて言えば、南極海もそれにあたるかもしれない)。故に日本の本州太平洋岸には南米のチリ沖の大地震の影響で津波が打ち寄せる、なんて(信じ難い)ことが本当に起こる。一方でオホーツク海と同様に、日本海も明らかに閉鎖海域である。また、かつて日本の大型母船が蟹や鮭鱒や助宗鱈を捕獲・加工していたベーリング海もアリューシャン列島とアラスカとカムチャッカ半島に囲まれた閉鎖海域である。そんなことを強く実感した次第であります。

 また、博物館は北方民族の着衣等の民具を多数展示していますが、有史以来北極圏で暮らしてきた人々の大半は、我々と同じ蒙古斑(=青チン)のあるアジア人であることを再認識しました。グリーンランドの主たる街(集落)の大半が西海岸に点在していることから、かつてシベリアに住んでいたイヌイットの人々がベーリング海峡の氷の上を渡ってアラスカに達し、その一部の人々がカナダ北方の島々を経由してグリーンランドに到達したのではないか、と想像されます。(同じく、ベーリング海峡を渡ってアラスカに到達した人々の)別の一派は南下して北米大陸、カリブ海、さらには南米大陸南端のパタゴニア・最南端のケープホルンに到達していた。一方で、欧州の人々が有史前に北方に移動した痕跡は極めて稀少な様です。北欧三国の北部にサーメ人(或いはラップ人)と呼ばれるトナカイの遊牧を営む人々がいます。彼らはフィンランド語に近い言語を話す人々との由で、恐らくはウラル山脈の西側のタイガで生活をしていた人々ではないかと想像されます。こんな風に、人類の壮大な「グレートジャーニー」を、地球儀を上から(北極点を中心に)眺める形で想像することはとても愉しいことでした。これも業務上日々夏のオホーツクの海況と向き合ってきたからこそ、気付いたご褒美と言えそうです。やはり「旅はいいもの」ですね。

 という訳で早 長月(9月)に入りました。道東の太平洋岸の街より、気が向いたら、また何か書きましょう。それでは。



 





39年前に歩いた道を辿る

 オホーツク海はここ数日は時化。今日から風向きが南に変わり、最高気温15℃の世界から穏やかな残暑に戻る見込みです。本州・四国・九州・沖縄は台風列島の様相を呈しています。オホーツクだけは知床の山脈の陰に隠れてまあまあ穏やかです。

 昨日は網走駅前のホテルから隣の呼人駅まで網走湖畔を約1時間半歩き(10km程度)、呼人駅前の松尾ジンギスカンで肉2人前(@700X2)・野菜2人前(@300X2)・生ビール2杯(@500X2)(都合3千円也)を食し、17時に電車に乗って網走駅に戻りました。実は網走駅と呼人と網走湖には39年前の夏の一風変わった知床旅行の思い出があります。

 39年前、僕は大学のクラブの1年目で先輩方と一緒に知床半島を旅しました。当時は知床峠の道路が開通前だが「徒歩通過可」の時代でしたが、ウトロからバスに乗り、知床五湖等の観光地を素通りして終点の知床大橋下車。そこから重いゴムボートや食料を背負ってルシャ川付近に下り、タキノ川の番屋付近の川辺に幕営。現在のルシャ川付近は「ヒグマの巣」というか、研究者がヒグマの個体識別をして観察している地域だが、当時はサケマス孵化場があるだけの場所だった。それからゴムボートと水泳で知床岬に向かいました。食料は手持ちの貧弱なそれに加え、朝晩ゴムボートを出してタコ糸でガヤを釣り、随時潜水してウニを拾う(明らかに漁業法違反ですが時効でしょう)、時には番屋のおやじさんが「食え!」といってカレイを投げてくれたり、番屋の賄いのおばちゃんが残り飯10合相当を恵んれたり、朝晩は焚火でガヤの塩焼を数尾食べる、何ともゴージャス(?)な旅でした。陸上+水泳主体の僕はカシュニの滝の抉れた部分をへつり、いよいよ切羽詰まると海に飛び込んで水泳。カモメが泣くレタラワタラの飯場に海から上陸した際には番屋のおじさん達からは「あんた達、どこから来たんだ?」「何、ウトロからゴムボートと泳ぎで?何でまたそんなことを。」と怪訝な顔をされたものでした。それでも海況にも恵まれ、4日かけて無事知床岬に到着。岬の草原の碑の前で国後島を眺めながら皆で「知床旅情」を歌う。当時岬にはウニを採ってスプーンで卵巣を採取する老夫婦がいらした。その後岬近くのブンキチ湾で鮭鱒の運搬船をヒッチハイク(?)してウトロに戻り、その後オホーツク側のテッパンベツ川を遡行して知床岳付近に幕営(これも現在では違法でしょうねえ)。翌日ウナキベツ川を下降して、太平洋側の羅臼へ。もう一回羅臼岳に上がる沢を遡行して再度羅臼側に下降する計画であったが、先輩の怪我で断念。当時環境庁より羅臼に赴任されていたクラブの先輩のKさん宅に泊めて貰う。僕は食事担当でカレーをつくっていたが、高校野球のあの有名な箕島VS星稜の大接戦をTVで観戦していた為、恐らくは5回程カレーをコンロで温め直した結果、カレーをこがしてしまった。夜は羅臼の高台の共同露天風呂で誰もいないことをいいことにフルチンのリーダーの前口上の後、皆で寮歌を斉唱。翌日網走までバスで戻り、駅前にて解散。その後は各自思い思いの方法(とは言っても帰宅の銭を持たず、帰路はヒッチハイクが定番だった)で帰途へ。あの際僕は運よく共同装備のテントを持っていたし、食事計画担当ということで昼食のクズビスケットも持っていたので強気であった。だが、網走駅前は結構な暑さで人通りが多く、とてもテントを張れる様な状態ではなかった。ヒッチハイクもしにくい雰囲気にて夕闇が迫っていた。そこで僕はとりあえず電車に乗ることにした。どこかの田舎の駅で降りでテントを張ろうとしたものと思う。ところが乗車するとすぐに車窓から網走湖とキャンプ場らしきものが見えた。しめしめ、とう訳で次の呼人駅で下車。網走湖畔にテントを張り、クズビスケットを食べて、翌朝帰途についた。

 とまあ、遠い昔そんなことがあったので、今回は39年前に通った道を逆に辿ってみました。まず網走駅前から網走湖まで歩く。網走駅から網走湖のキャンプ場は40分程度の道のりで、思いの外近かった。逆に言えば、あの時は隣の呼人駅から荷物を背負って1時間近くキャンプ場まで歩いたということか?松尾ジンギスカンのお姉さんが言うには、呼人駅付近にはキャンプ場は昔から無かった由。そんな風に遠い昔の我が足跡と記憶を辿っていく。

 当時を懐かしみながら、ビールを片手にジンギスカン鍋をつつく。何だかとても豊かな気分に満たされ、1時間程度ちょっと早い晩餐を愉しむ。呼人駅発の網走駅行きの電車は1703発。しばしこじんまりした呼人駅舎の佇まいを見入り、ホームの片隅に腰かけて🚬を一服。寮歌なんぞを歌っていたら、女性の乗客の存在に気づき、嗚呼恥ずかしい!2両編成の電車が到着。左側のボックス席に陣取り、車窓から、「あの時呼人駅で降車する原因となった車窓からの網走湖の風景」を眺め、携帯で画像を撮る。満たされた気分で網走駅着、ホテルに戻りました。嗚呼、愉しかった!!!!それでは。


雨の網走より。最高気温15℃也。

 久しぶりに書きます。当地網走は雨。北の風強く、本日の最高気温は15℃の予想です。先日網走川河岸を網走湖まで歩きましたが、街路樹のナナカマドは一部が紅く色づいていました。また南の風が吹けば気温は25℃程度までは上昇する予想ですが、オホーツクの街は内地のお盆期間の夏祭りを終え、このまま秋に入ります。

 お盆を故郷の外で過ごすのは久しぶりでした。サラリーマン時代はお盆は山に入っていたが、ここ十数年は欠かさずお墓参りをしていた。自分自身が齢を重ねてきたこともあって、親しき人々が鬼籍に入ることがあった。今回は元網走市助役のSさんのお宅を訪ねる予定です。Sさんとは昔の捕鯨関係のカナダでの会合でご一緒してすっかり懇意になり、3年前の網走での捕鯨サミットで再会。和田浦からの来訪者全員を歓待していただきました。昨年より網走調査が開始され、「毎年会える!!」と楽しみにしていましたが、一昨年に逝去され、その報を昨春網走にて接しました。先日行った床屋さんが、たまたまSさんの通っていたお店でして、店主さんに整髪して貰いながら、故人を偲びました。

 終戦の日はNHKの「ノモンハン事変」の番組を視聴。司馬遼太郎さんは、著書「この国のかたち」の中で「美しい日本史の流れの中で、異胎の時代としか思えない日露戦争後から太平洋戦争敗戦の間」の象徴的な事件と位置付けています。番組では関東軍の装備(武器)の貧弱さについて詳細な説明はありませんでした。司馬さんは「にわか陸軍将校」だった為か、タンク(戦車)の「外見は立派だが、鉄板の強度を欠き、ロシア(ソ連)のBT戦車の弾丸が容易に貫通してしまう代物」と具体的に書いていた記憶があります。番組はドキュメンタリー形式ながら、結論としては関東軍参謀や東京の参謀本部の無責任さを糾弾する内容のものであったと感じています。

 一方で(兵士や戦場に住む人々の生命の尊さ・痛みを綺麗サッパリ捨象して)「日本国という国家を守る」という論理のみで物事を考え、その目的達成の為に作戦を考案し、それを実行せしめることが参謀の役割と考えれば、彼らのしたことは(荒唐無稽とさえ言える大失敗が多く報告されているが)必ずしも不正なことをしたということにはならないものと、今更ながら気づきました。ただ戦争は、覚悟はできているとは言え兵士にとっても、無論戦場に住む人々にとっても、地獄以外の何物でもないことは自明なこと。軍隊の司令官(上官)は、自軍の兵士の、敵軍の兵士の、戦場に住む人々の生命と生活をどう扱うか?この問いかけに全うに答えることは出来るだろうか?この答えを考える前に、「戦争は止めましょう。」ということになりますね。

 (追記:江戸期の日本人は概ね平和を享受しましたが、その時期欧州では戦争が多発しています。特に近代の第一次世界大戦の惨禍は空前の大規模なものとなり、欧州人の間では「二度と繰り返してはならない(空前絶後としなければならない)戦争」という反省が共有されました。その流れの中で国際連盟が誕生しますが、その後再び第二次大戦が起こってしまいます。そういった欧州史の中で、例えば捕虜の取り扱い等のいくつかの国際条約が過去の反省に基づき制定されており、戦場においても「一定のルールはある」という認識が共有されている様に思います。その点が、戦国時代以降の近世を平和裡に過ごし、近代の戦争、特に日露戦争では大きな犠牲を払いはながらも国内が戦場になることはなく、その後に第二次大戦を迎えた日本社会では、感覚的に理解しにくいところではないか、という感想をもっています。)

 この時期になると、物故した伯父貴の言葉を思い出します。海軍兵学校卒で戦中は駆逐艦の魚雷長として従軍。沈没した軍艦から泳いで命をつなぎ、戦後大学に入学・卒業し、海運会社に勤務。会社の先輩には当然(入社年次の早い)年下の社員がいる訳で、ある年下の先輩が酒の席で「Sよ、貴様は会社の為に死ねるか?」と問うた。伯父貴は「死ねない。」と答えた。そうしたらその先輩が殴ってきたので、逆に殴りかえし、馬乗りになって胸蔵をつかんで揺すり「てめえ、死ぬっていうことがどういうことかわかってるのか?」と言ったとの由。まさに修羅場を潜り抜けてきた、生き血の通った人間の言葉。その言葉との比較で言うと、まあ戦後相当な時間が経過して老齢となった故に仕方ないと言えるかもしれないが、元参謀の「昔を懐かしむ様な明るいあっけらかんとした言葉」にはうんざりします。

 伯父貴は全く戦争の話をしない人であったが、僕と同級の息子(我が親しき従兄)がいて自宅に頻繁にお邪魔させていただいたことが多く、上述のようなお話を機会を得ました。とにかく強面であったが家族愛が強い人で、(我が父親を含めた)兄弟は勿論(物故した後に美談がボロボロと出てきました)、僕ら甥・姪の面倒まで一括してみてくれた伯父貴でした。生前は孫のK君には戦争のことを話していたと聞いています。

 「国家を守る為の戦争」。日本列島は地理的・歴史的には大陸から隔離された環境におかれた為、我々日本人は概して「国家を形成しやすい性質」をもっているものと思います。その国家を、現行の法制度の下でどう運営していくのか?特に他国による侵略のリスクにどう対応するのか?先の戦争と言うには、随分と昔のことになったが、引き続きあの戦争はそういった問題を問いかけているものと考えます。
 
 なお、上述のドキュメンタリー番組の視聴中に眠気に襲われ、必ずしもよく視聴出来ていなかった面はあります。その点はご了承いただきたく思います。なお、その後のNHK番組845で、「根室プロレス」なる(多分ボランテイアの)プロレス団体が士幌町の小学校の閉校式に呼ばれて、プロレスの興行をし、そこでは(最後の)校長先生がリングに上がったり、「アンドレザジャイアントパンダ」なる身長3メートル近いパンダの着ぐるみを付けたレスラーが登場したりで大いに笑いました。「アンドレザジャイアントパンダ」は、一人で移動するには着ぐるみが大きく重過ぎて、リングへの入場も退場もノロノロとして、遅々として進まず。それが何とも可笑しい。やはり平和はいいです!尤も平和が故に「プロレス」なる(少々いかがわしい?)戦いの興行が行われるのかもしれませんが、、、。それでは。



 

パワハラとセクハラとパンツ

 当地網走では時折雨のぱらつく高曇りの天気ですが、気温は20℃前後。何度も書きましたが、オホーツクの夏は終わりました。内地の太平洋岸では軒並み最高気温35℃前後の猛暑日の様でして、何だか申し訳ない気がしています。網走入りして以来、結構忙しいな日々を送ってきましたが、ここ数日の時化で時間的な余裕が生まれ、残務を片付ける時間も頂き、今では比較的落ち着いた生活を送っています。

TVではボクシング協会の会長の進退問題で大騒ぎ。会長の発言を聞いていると「自我の肥大化」という傾向を感じざるを得ません。誰もが「こりゃあ、まずいでしょう。」と感じているのではないかと推察します。だったら「辞任して貰えばいい。」「民主的な組織に変えればいい。」とうことになるが、それで事態が(何らかの目的をもって設立された組織の機能が)改善されると言える程に物事は簡単ではない。「しっかりした組織=官僚的な組織」という訳で、それでは思い切ったこと、時には本当に必要なことが出来ないことがある。さらに「民主的組織」というのも、その運営自体に大変な手間がかかる訳で、合意の形成が面倒だから、「反対意見が出る様な思い切ったことは止めておきましょう。」となることは、多くの皆さんが経験していることかと思います。故に、「しっかりした(官僚的な)組織を民主的な手法で動かし、よりよい結果を得ること」は非常に骨の折れる、とても難しいものなのでしょう。そしてそこに、この1年間(主としてスポーツの世界で)頻繁にTVに登場したパワハラの実行主体たる「自我を肥大化させた人々」を生むスペースが生まれる。概ねそんなことなのではないか、と考えています。

 そう言えば、先日の網走での会食の席で、僕は同席していたFさんより「Sさん、あの発言、東京だったら、ひょっとしてセクハラ発言ですよ!」と(満面の笑顔で)言われました。事の経緯を話しますと、その会食のメンバーは一応は面識はあるものの、今まで比較的静かな会議に同席していただけで、親しくお話しした経験がある訳ではなかった。そんなこともあってか、乾杯の挨拶が終了しても、どうもその場が盛り上がらず、僕なりに気まずいものを感じていました。そんな中で少しは場を和ませそうなことでも話さねばならぬと感じ、こんな発言をしました。「Sさん、洗濯物をどうしてる?僕は一度も洗濯をしていないので、とうとうパンツが在庫切れですよ。明日からはパンツを裏返しにはいて、しのぐしかないですよ!」と。

 という訳でして、少々お下品であることは否めないところですが、この程度の発言がセクハラに該当するのかしら?ネットで調べてみたところ、セクハラの定義は「相手の意思に反して不快や不安な状態に追いこむ性的な言葉や行為」との由です。故に上述の僕の発言の中の「明日からはパンツを裏返しにはいて」の部分が、「同席の人々を不快や不安な状態に追いこむ」性的な発言であったがどうかが問われることになりそうです。その席には女性が2名おられましたから、そうだ、直接彼女たちに聞いてみましょうか?否、駄目だ、もし上記発言がXだったら、それがOかXか女性に聞くこと自体がX(セクハラ行為)になってしまう恐れがある。よくよく考えてみれば、「パンツが在庫切れ」という言葉自体も怪しいし、そもそもパンツという言葉(物)自体、性的なニュアンスで使われることのある言葉と言えそうだ。ならば「あくまで慎重に」ということにすると、「パンツ」という言葉自体が使えなくなってしまう。これじゃあまるで言葉狩りだ!尤も僕は今回このブログで相当回数「パンツ」という言葉を使ってしまったけど。

 でもまあ、僕は「これはこれでよし」としたいと考えます。要するに「場を少し和ませようとしての発言」でもあった訳だし、僕は自分自身の使用済の汚れたパンツの在庫と、(8月に自宅で洗濯した後は未使用の)残り少ない綺麗な(?)パンツ在庫のことについて発言した訳で、他者のパンツについて云々した訳ではない。法律は守られねばならぬが、そもそも法律というものは、この日本社会において概ね暗黙の了解とされている事項(社会通念)を、言葉を使って表現したものとも言える。要するに「自分なりに社会通念上問題がない」と思う範囲内で発言すればいいのだ。誰もが(いくつかのホットな話題となっている事象を除き)「法律に基づいて、それを意識して」生活している訳ではないのだから。そんな料簡で生きていく中で、うっかり法律に反したことをやってしまった場合は、そこそこの言い訳はさせて貰った上で謝罪し、その後はそれを改めればいいのだ。そんな感想をもっています。

 上記のセクハラ論議では、「パンツ」という言葉を発すること自体が、「同席の人々を不快や不安な状態に追いこむ」性的な発言かどうか、を問題にしましたが、その中で極めて頻繁に「パンツ」という言葉を使う結果となってしまいました。その点を謹んでお詫びを申し上げることと共に、今後皆様を「不快や不安な状態に追い込むこと」がなき様に留意しつつ、また何か書きたいと思います。それでは。



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