外房捕鯨株式会社

千葉県和田浦の捕鯨会社からのプレスリリースです。

年の瀬に寄せて

 まさに光陰矢の如し。8月末に和田浦発釧路へ向かう旨書いて以来、すっかりご無沙汰してしまいました。家人に拠ると、このご無沙汰が故に、私が引き続き釧路にて寒風に晒されていると思っている人々もおられる由です。想えば、昨秋は何故か興が乗り、それなりの頻度で由無きことを書き綴った記憶があります。「沙汰無きことは無事なこと」なんて大手を振って言える程に若い訳ではなし、この辺で「年の瀬に寄せて」と題して、何か書いてみよう。ようやくそんな気になってきました。
 
 この時期を表す言葉としては、「年末」とか「師走」とかいろいろな言葉がありますが、今回は何故か「年の瀬」という言葉に引かれました。辞書に拠ると「瀬」とは川の浅瀬、即ち浅くて水の流れが早い処を示し、船で通過するには難渋するところです。故に「年の瀬」は、銭(ゼネ)の支払と取立等の今年の厄介な仕事を新しき年に持ち越さぬ様に悪戦苦闘する時期と言った意味があるそうです。時の流れを川の流れに喩える感覚は何ともゆかしきものですが、「年の瀬」という言葉にかかる意味が込められていることにいたく感心しました。

 この年の瀬、当地では比較的静かな時間が流れています。そんな感覚が強いですね。当地では昼間でも国道の自動車の往来が途絶えることがある。これは人口減少・高齢化による経済活動の停滞が背後にあることに間違いはないのだが、普段の煩わしいものが消失し、残された静寂。それを好感する自分を発見しています。

 この初冬の多雨と相対的に高い気温の影響で、農作物の生育は良好な由。故に生鮮野菜類の供給量が一時的に増大し、一転して店頭の生鮮野菜の価格が下がっています。当地は花卉類の生産地ですが、花卉も事情は同じ。年末に出荷を予定していた花がない。長年花卉栽培をしている大先輩方に拠ると、こんなことは過去にはなかった、とのことです。海の方の事情はこれと真逆。水温が下がらず、漁の方は「秋枯れ」の状況が続いています。ようやく冬の魚が入りだしたが、量がまとまらない。例年と比べて1ケ月程度遅れているかなあ。そんな感覚です。

 農業も漁業も、気候(自然)の影響をストレートに受ける仕事。仕事は人間のやることだから、それがうまくいかなければ、人間のこころはささくれ立ってくる。が、そんなこころの「ささくれ」を抱えながら、人々は淡々と生きてきた。そしてその「ささくれ」を日々の生活、経過する時間が癒していく。尤も「ささくれ」は次から次へと発生するが、、、。

 来年3月であの震災から丸5年。想えば、多くの人々のご厚情をいただき、鮎川事業所のインフラの復旧は完了しました。時に過去を振り返り、当時の惨状を思い起こせば、感無量也。またあの震災からの復旧作業の中で培った人間関係が大きな財産となっていることを実感しています。捕鯨を巡る情勢は好転の兆しを実感出来ませんが、最近は声高に「獲る権利」を叫ぶことはなく、この稀少となってしまった仕事に携わる者として、この仕事をとりあえずは止めないで、次の世代に健全な状態で渡すことに生きる意味、働く意味を実感する様になりました。この世の中、過去の歴史を検討してみれば、いろんなことがあった訳で、人々はその中で現況に悲観をしつつもあきらめず生きてきた訳だから。そんな膨大な時に流れの中に、ある個が生を受け、何らかの役割を演じて、死んでいく。そういったものであろう。

 最近、米国加州にてお世話になった方に手紙に無恥にも以下を書きました。
I am still fond of strolling our small town with my dog and of seeing ordinary scenery here, which sometimes let me feel "Life is worth while to lead" without any rational reason.
(邦訳)
私は相変わらず、犬を連れて散歩し、小さな我が町の変哲のない風景を楽しんでいます。そして、そうすることが、何の合理的な理由もないのですが、「人生生きるに足る価値あり」と感じさせてくれています。

 そうですねえ、「静かな生活」の中に沈滞してこころの「ささくれ」を弄びながら憂いているのは健康的じゃあない。とりあえずは元気を出して、何かをしよう。凛とした寒気の中、また田園を、海岸を闊歩しよう。そしてその勢いをもって働こう。

 という訳で、何だか要領を得ない文章になってしまいましたが、まあいいや、このままアップしてしまいましょう。問答無用、とりあえずは前に進み、この年の瀬を越えましょう!

 最後に毒を喰らはば皿まで、この秋は釧路への台風+爆弾低気圧の到来で、暇になるは、海が荒れればそれを見たくなるは、ということで、釧路の知人町(シリトチョウ)付近を何度も散歩。その際に読んだ歌2首を紹介しましょう。それでは、皆さん、年度中は大変お世話になりました。良き年をお迎え下さい。

知人町を 知る人ぞ無き 釧路人 ダリヤの花の 忘れ去れ咲く

知人町を 知る人ぞ無き 釧路人 真綿工場の  破屋ぞ悲しき

天皇陛下大いに笑う

 先日このブログに、昭和24年に文藝春秋に掲載された「天皇陛下大いに笑う」という文章(座談記事)のことに触れました。先週、文藝春秋「戦後70年 終戦から高度成長期まで」を購入し、早速「戦後の暗雲を吹き飛ばした名座談」と銘打ったこの記事を読んだが、実に面白い。またこの記事の面白味は、サトウハチローの愚行もさるものながら、やはり圧倒的に天皇陛下の存在そのものに拠る部分が大きいし、「貧しいながらも、死の恐怖と抑圧から開放された時代の気分」の様なものが感じられ、とても味わい深いものだった。今回はこの記事のことを紹介しましょう。

 この記事は昭和24年に昭和天皇に謁見・懇談した辰野隆・徳川夢聲・サトウハチローの三人の謁見後の座談の記録です。辰野隆(東大の仏文学者)が宮内庁の意向を受け、徳川夢聲(漫談家)とサトウハチロー(詩人)と共に謁見に望んだが、三人共格式の高い謁見には似合わないタイプの人々であった。天皇陛下との謁見は、辰野の「今日は図らずも昔の不良少年が、一人ならずも三人まで罷り出でまして、誠に畏れ多いことでございます。」という言葉から始まる。陛下は「あっ、そう。アッハアハア・・・・」とお笑いになった由。
 さらに辰野が「徳川は私と同じ府立一中でございまして、ちょうど私と入れ替えぐらいに入学した後輩でございますが、サトウの方は中学校を五年間で八度も変わったそうでございますから、どの中学とも申上げかねます。」と発言。陛下は再び「アッハアハア」とお笑いになる。

 その後はサトウハチローの話が圧巻。以下サトウの発言を2つ、そのまま掲載します。

「あたしがね、或る春の野球大会へ立教中学のユニフォームを着て出たんです。その年の春の終わりの大会は高輪中学のユニフォームを着て出た訳です。その次の夏の大会の時は藤沢中学のユニフォームを着て出たんです。そうしたらアムパイアをやっていた佐々という慶応の人が「お前、そうユニフォームを変えて来るなよ」」

「あたしの友達に安永というのがいてね、そいつも僕も一文も金がなかったんだ。そうしたら中華料理を食おうって安永が言うからね、「どうして食うんだ」「誰でもいいから金を持っている奴をつかまえてきてくれ。賭けるから」と言うんだ。そこへ里見さんと久米さんが来たから、早速つかまえて、「木村屋のアンパンを三つ一遍に食うが、食えないと思いますか。賭けましょう」と言ったんだ。里見さんが「よし。そんなバカなことは出来るわけがない。賭ける」 久米さんもそばから「俺も賭ける」 二人とも五円づつ出したんですよ。あの昔のひとつ五銭のアンパンですからね、大きいんですよ。三つ重ねると赤ン坊の頭ぐらいの大きさでしょう。口に入りっこないんだ。そうしたら、もう一人宮地という男がいてね、それが安永の顎を外して、パッとアンパン三つ入れちゃった。(笑声)十円の儲けでさあ。」
そんなサトウの無茶苦茶な話への陛下の反応を、徳川と辰野は以下の通り話している。

徳川「しばらくは陛下のお笑いが停まらなかった。他の話に入ちゃったのに、まだしばらく笑っておられたんですナ。陛下はあんまりゲラゲラ笑う習慣がおありにならないんで、初めにハアッと笑われてあとは笑いの衝動をこらえておられるのかナ、ハアッ 一 ハアッとお笑いになるんですナ。」

辰野「あの入江侍従がね、陛下があのくらい快くお笑いになったことは初めてだッて言っていましたよ。」

 それにしても、この何とも言えないしみじみとした面白さは何に由来するのだろう。やはりそれは、神聖にて畏れ多くて近づき難き「天皇陛下」と「柄がいいとは言えない、かつての不良少年3名」が対談をしたこと、さらにはその際の陛下の反応が高貴さを保ちつつも極めて人間的であったこと。そのことに尽きるのでは、と感じています。

 司馬遼太郎のどのエッセイだったか、戦前の国家は非常に重苦しいものだったが、戦後の国家は戦前と比べれば圧倒的に軽くなった。戦後の日本人の「柄の悪さ」は、この軽くなった国家の下で醸成されたものと思われ、そんな「柄の悪さ」が許容される雰囲気に大いに好感を抱いている、といったことが書いてあったものと記憶しています。この座談記事から溢れ出るユーモアも、戦中の抑圧から解放された戦後の日本社会の「柄の悪さ」が故に花開いたもの、と言えるのではないでしょうか。

 「柄が悪い」と云えば、昭和26年秋に坂口安吾が発表した「もう軍備はいらない」という文章も凄い!朝鮮戦争の勃発受けて、憲法改正論や再軍備論が論じられた頃の文章との由だが、
「自分が国防のない国に攻め込んだあげく負けて無腰にされながら、今や国防と軍隊の必要を説き、どこかに攻め込んでくる兇悪犯人が居るような云い方はヨタモンのチンピラどもの言いぐさに似てるな。」
だって。「ヨタモンのチンピラどもの言いぐさ」とはいかにも「柄の悪い」表現ですが、独特なユーモアを含んでいますね。

 安全保障問題関連の論議のかしましさ、されどこの問題に対する我々国民の理解は遅々として進まず。流石に代議士や役人が柄の悪いことを言ってしまっては国会が空転してしまい、まずいかなあ。だったらせめて、言論界から、サトウハチローの如き「あたしゃあねえ」とか「ねえ、陛下」といった口調で、「良質なユーモアを含んだ柄の悪い論説」を展開する人々が登場することを願って止みません。「柄の悪さ」は概して強烈なリアリズムを包含するものだから。それでは。最後に少々厄介なことを書いてしまいました。

バターとお金と株式と人工知能と金と銭

 初夏を思わせる日々が続いています。降水量が極端に少なく、それが野菜の価格上昇を招いている由。僕の方は春に入って以来引き続きやや不調の状態。毎朝とりあえずは犬を連れて歩き、休日も徒歩で犬と遠出(とは言っても町内)をし、仕事の方はぼちぼちとやる。夏の漁の前は何かと落ち着かず、かかる精神状態に陥ることが多いですね。まあ、わかりきったことなのだが、今日は敢えて我がこころの中を探検し、その状態を確認してみようか。そんな気になっています。そんな中でも、季節は移ろい、当地ではホタルブクロの花が咲き始めました。海岸ではハマヒルガオ、月見草が咲いています。が、季節の故か、或いは我が精神状態が故か、「もののあはれ」を感じることはないですね。

 今朝はNHKのニュースを大変興味深く見ました。昨年末に大騒ぎとなったバターの不足の問題が再燃しています。農水省の役人さんの「需給情勢を睨みながら、随時輸入量を拡大していく」とのコメント。少々奇異な感じがしたが、そもそもその違和感は僕自身が「自由な市場取引による需給調整」に慣れていることに起因している様です。バターに限らず商品一般は、供給量及び需要量の増減によって需給調整が必要となってくる。バターの場合その輸入量は国内の酪農家保護の為に公的に管理されているので、その需給調整を自由な市場に委ねず、国家(役人)が管理する。「自由」とは相対的なもの。自由な市場と言っても当然いろんな縛りがある訳で、「必要に応じて管理」することに何ら奇異なことはない。そう感じるに到りました。

 一方で、次のニュースは株式取引のお話し。そもそも株式の取引と言えば、証券取引所にて人々が手を挙げて叫ぶ風景を連想します。それは卸売市場での鮮魚のセリの風景と大差はない。ところが現代では、否、既に数十年前から誰でもパソコンの端末で株式取引が簡単にできる時代となっている。そのコンピューターを使った取引だが、最近では人口知能が「過去数年の株式・商品相場を動き」と言った膨大な情報を、人知を遙かに超えた能力をもって把握し、その情報に基づいて株式・商品を売買する。そしてそれは相当に高い利益をもたらしているらしい。しかもその人工知能は日々の自身の損益の情報を正確に把握し、その情報も踏まえて取引をしていく、すなわちより高い収益を得る方向で日々学んでいく設計になっているとのことです。さらに、データの送受信の高速化とコンピューターのプログラミングにより、昔は電話で一件々々成約させていた取引を、1秒間に数万件こなしてしまう由。何だかとんでない時代を迎えつつある。そんな印象を持ちました。

 資産運用を生業とする人々にとっては、より効率的でより収益の上がる仕組づくりを追求することは彼等の仕事そのもの。故に技術革新によってかかるシステムが創造され、それが経済社会を動かしていく。しかるに、この革新的な仕組に違和感を覚えるのは僕だけであろうか?僕の理解で言えば、お金は物資やサービスを交換する手段としてとても便利なもの。「金は天下の廻り物」であって、そのお金が、「生産者が人々の必要とするもの・欲しいものを生産し、それが流通して、人々の手元に届く」様に、うまく廻っていくようにする必要がある。それは「貨幣の需給調整機能」とも言えるもので、現況ではそれを自由な市場に委ねている訳であり、日々その市場に参加して資産を運用する人々は、その「貨幣の需給を調整する」社会的機能を果たしていることは間違いない。しかしマルクスが書いている様に、その自由な市場においては、金はより高い利回りを求めて動く。金は金の都合で動く訳で、その金は時に穀物や石油の市場に流れ込み、商品相場を大きく動かす。そもそも商品やサービスの便利な交換手段であった筈のお金が、、、、、、これじゃあ本末転倒ではないか。そしてこんなマネーゲームが「我が国のGDPの何割占める基幹産業だ!」なんて、それはまともな感覚とは思えませんねえ。

 以上、今朝のニュースを起点につらつらと考えてみました。近年、TVでは貨幣のことを「お金」と呼ばず、「金」(カネ)と呼び捨てにするのが正しい報道の仕方なのだそうです。でも僕にとっては美しき女性アナウンサーが「金」「金」と言うのにはどうも馴染めません。日本語には「銭」(ゼニもしくはゼネと発音)というなかなか味のある言葉もある。
どうせだったら、労働の対価たる「お金」と「銭」という言葉を分けて使ったら如何でしょう?女性アナウンサーが「銭(ゼネ)が欲しくて犯行に及んだそうです。」なんて言うのも結構愉快そうです。

一方で我が社は海から鯨を取ってきて、それをバラして、それを食べ物としてお客さんに買って貰って、有難く「お金」をいただく仕事をしています。そして、その金は天下の廻りもの也。それでは。

パルミラの遺跡への想い

 報道によると、シリアのパルミラにイスラム教過激派組織ISが侵攻し、既に多数の人々が殺戮されたらしい。またISは非イスラム教の遺跡破壊を繰り返していることからして、パルミラにおいても同じことが起こるのではと危惧されている。あの広大にして繊細な美しさ持ったローマ帝国時代の廃墟、その傍らの小さなオアシスの集落で日々の生活を営む善良な人々。そこを舞台とした地獄絵図を思い浮かべ、こころを痛めている。

 今から30余年前、大学の5年生の春、僕はこの地を訪れた。あの頃は、確かに反政府組織の人々(スンニ派イスラム原理主義者であり、現在のISに近い人々)がシリア政府によって虐殺され、ハマの中心部に見せしめの意味で吊されていた年だったと思う。それでも旅行者にとっては、シリアは人々の笑顔が優しい、静かな印象を与えてくれる国であった。一昨年は十字軍と戦ったアラブの英雄サラデイン(実際にはクルド人)の要塞が残るアレッポの街が破壊され、今回はあの麗しきパルミラで大規模な虐殺が行われ、遺跡は破壊の危機に直面している。当時の50日に渡る中東放浪の中で、パルミラは最も思い出深い地であるだけに、彼の地の動静が気になるのである。

 あの日、僕は朝アレッポをバスで発ちホムスへ南下、そこでパルミラ行きのバスに乗り換えた。バスはシリア砂漠を横断、時々羊群を率いるベドウィンの姿が見えること以外は何もない砂漠。僕はその風景に見入っていた。そしてシリア砂漠の残照が絶えんとする頃にバスの車窓から遺跡と思しきシルエットを見たものの、バスを降りた頃は真っ暗だった。呼び込みに来た宿の主人と一応宿代の交渉をした上で泊めて貰うことにした。晩飯を何処で食べたものか、記憶に無いが、その晩主人と以下の様な会話をした記憶がある。

主人「貴方は何教徒であるか?」
私「仏教徒である。」

(当時は「無宗教=コミュニズム」と理解され、時にトラブルも招く、という「旅の知恵」と、我が家が真言宗であることから、「仏教徒」と返答した次第である。)
主人「仏教の神様は誰だ?」
私「ええと、仏陀ですねえ。」
主人「仏陀は生きているか?」
私「ええと、遠い昔に死んでいますね。」
主人「神様は死ぬのか?一方でアッラーは不滅である。やはり仏陀よりアッラーの方が偉大である。」
私「、、、、、、、、、」

 流石に自分自身の宗教に関する無知に唖然として動揺したが、その後の主人のアガール等の土産物の執拗な売り込みに対しては、無い袖は振れず、切り抜けて就寝したことを覚えている。

 翌早朝、パルミラの遺跡を歩く。とにかく凄い規模の遺跡である。遠くに人が一人歩いており、僕の方に近づいてくる。その人は比較的若い女性であった。彼女は一言、「バクシーシ」と喜捨を要求したが、やがて無い袖は振れない僕に見切りをつけて退散した。僕はたった一人で遺跡に取り残された。やがて砂漠の地平線から太陽が昇り、広大な遺跡はバラ色に染まった。息を飲む様な美しさ。僕は廃墟の大理石の土台に腰を下ろし、しばらく茫然と遺跡を眺めていた。やがて何人かの男性が集まってきた。彼等は遺跡の発掘の仕事をしいるらしい。そうだ、この遺跡は未だ発掘の最中なのだ。やがて彼等は木切れを集め、焚き火を始めた。そして、僕に手招きをする。紅茶の一服の時間の様だ。有難く紅茶をいただき、さらに結構立派なオレンジをひとつご馳走になる。英語もドイツ語も通じないが、何だかとても豊かな気分でしばらく彼等と過ごす。ひとりひとりと握手をし、集合写真を撮って貰って、ようやく数時間茫然と佇んだ遺跡を後にした。この写真があの旅でのベストショットとなった。

 以上、とりとめもなく、記憶を辿ってみたが、やはり、あの美しき広大な遺跡を穏やかな人々がぼちぼちと発掘していた風景と、内戦の風景は重なり得ない。彼の地の人々が内戦を逃れて生き延び、また何時の日にか、彼の地に戻って安逸な生活を送れる日が来ることを、切に希望している。また、何時のことになるかわからないが、再び、朝日に輝くあの遺跡の片隅に佇みながら、茫然と過ぎし日々のことを想う機会が来ることを希望している。

 それにしても、人々は時に、論理的整合性の高い思想を背景に、情熱をもって現状の改変を志向して行動するが、それがとんでもない惨状をもたらすことは結構多い様に想う。塩野七生さんは文藝春秋のエッセイの中で、イスラム教のドグマの明快さの中に、その危うさを指摘している。キリスト教も過去に多くの破壊活動を推進した歴史を持つが、その贖罪意識を伴った複雑なドグマと、そんな歴史認識の定着は、社会・人々をより自制的に動かしている。そんな論点だったと思う。やはり、明快な論理は時に人々を思考停止状態に陥らせ、そんな人々の行動が社会にとんでもない惨禍を招くものなのだ。

 翻って、最近の日本の状況はどうか?中韓との関係の悪化が影響してか、「日本を素晴らしい国」とする書籍と、中国や韓国の後進性を表す書籍が、かくも多数本屋の棚に並んでいる状況は異常と思う。僕自身はこの国に生まれてラッキーだった、という想いが強く、所謂自虐史観に与するものではない。しかし、自国を賛美して隣国を軽蔑し、安堵する様な精神構造は、如何なものか?物事は概ね「良かれ悪しかれ」というものではないか?中韓政府の対応に不愉快な想いをすることは多いが、自画自賛的な国家観にはやはり危うさを感じるのである。以上

メイデーに想う

 今日より5月。ここ鮎川の春は房州のそれと比べれば、湿気が少なくからっとしている。房州では照葉樹の強い色彩の新緑が丘陵の風景を躍動させていたが、当地の広葉樹は芽吹き始めたばかりなのか、色が淡く、春未だ浅き風景に感じられます。尤も僕には「春まだ浅し」と感じられる風景が、当地の本来の春のそれなのでしょう。桜は葉桜となり、ぼたん桜は未だ重い花をつけている。僕には当地の春の方が落ち着ける様な気がします。

 事務所でパソコンを開ければ、「そうだ、今日はメイデーだ。」と想う。東京で働き始めた頃、都内のどの辺りだったか、春の佳き日を会社の先輩方と愉快に闊歩した記憶が残っている。極めて良質な思い出である。あれから茫々30年。今年のメイデーや奈何?と、ネットで検索してみる。ニュース記事が見当たらず、ようやく連合のHPに辿りついたが、今年のメイデー(大会)は4月29日に実施済との由。おそらくは参加人数も当時の規模と比べれば激減しているのではないか、と思う。

 僕の勤めていた会社はそれから5年後あたりに、メイデーを自由参加に、即ちオルグしない(組織的な参加勧誘を一切せず、実質的に不参加となる)方向に舵を切った。当時の労組の委員長Sさんは僕らが「親分」と慕う腹の太い人だった。当時は5月1日という会社公認の実質的な休日を、メイデーの行進に使うのはいかにも勿体ない、といった感覚が強まっていた時代だったと思う。世はバブル経済の真っ只中。個の自由が尊ばれ、労組が組合員に強いてきた「団結すること」も左翼的な用語も、古臭い、流行らないものとして、脱ぎ捨てられた時代であった様に想う。労組の中央委員会だったか、研修会だったか、いわゆるデイベートという手法を使って、「労組としてメイデーに参加すべきか否か」を討議した記憶がある。その中でSさんは自由参加となった最初のメイデーの朝の出来事を話してくれた。不参加を決断した張本人ということで、敢えて朝ゆっくり寝ていると、奥さんに「あんた何やってんの!」と叩き起こされ、とりあえずメイデー会場へ。そこでSさんが何をし、何を感じたと言ったのかは覚えていないが、恐らくは複雑な気持ちで行進を眺めていたのだろう。

 当時は「個を不必要な束縛から解放して自由な時間を与えよう」という考え方から、昔から職場にあった(個の拘束を伴う)習慣を消していった時代であった様に思う。そして、与えられたその「自由な時間」を個は社外で合理的に使い自己を啓発する。とかく同質化しやすく、没個性的(と言われた)従業員の質が変わる。当時はそんな妄想(?)があった様に思うし、また僕ら自身も「自由な時間=休み」が増えるのは大いに結構、とう感覚が強かった。それでも、今あのメーデーの佳き日のことを懐かしく思い出す。

 1月4日が「働きもしない、意味のない出社」ということで労使の合意の下、休日となったのも、あの頃のことであった。その前は、1月4日には女性社員の大半が着物を来て出社し、職場は大いに華やいだものだ。会社では社長の年頭の挨拶の後、職場にてビールを飲んでお終い。そして若手の社員達は、着飾った女性社員と一緒に喫茶店に入って雑談する。嗚呼、あれも新年の佳き日だったなあ!

 今、ああいった場、時空にわが身を置けたことに大いなる幸せに感じる。会社を去って早20年。今でも当時の仲間と時々連絡を取るが、それは年々歳々かけがいのないものになっている。想えばあの組合の仕事だって、大した仕事をした訳ではないが、昼に組合の部屋で雑談をし、仕事の後にちょっと部屋に寄れば飲み会に引っ張り出される。それが午前様になることが多く、翌朝は結構しんどい思いをしたが、根が嫌いではないのだから致し方ない。そうですね、「居場所」、僕は幸運なことにそれが結構多かった様に思う。何をする訳でもなくそこに居られたこと、メイデーの春の佳き日も、1月4日の仕事のない仕事始めも愉しかった。

 ちょうどあの頃、ソ連邦が崩壊に向かい、日本はバブル経済へ、西側の国々は「平和の配当」を享受した。その先には「平和の時代」が待っている筈であったが、昨今の国際情勢はそんな穏やかなものではない。経済史的に考えても、当時ネガテイブに捉えられた冷戦構造は、西側(資本主義体制)と東側(社会主義体制)の両陣営が一般民衆・労働者に対して、それぞれの国家の存続を賭けて、サービス合戦に血道を上げた時代、という見方も出来そうだ。近年、「経済格差の拡大」が社会問題として取り上げられているが、この現象は、「社会主義」なる競争相手が失われ、資本主義の独壇場となったことにより、必然的に起こった事象とも言えそうです。今、あの春の佳き日の行進、組合の大会で聞こえて来る紋切型の表現がとても懐かしいものに感じます。

 何だかややこしいことを書いてしまいましたが、そうですねえ、「こうでなければ生き残れない」とか、市場原理の名の下、誰もが黙って実は「自分だけよければいい」思っている様なおぞましい社会は願い下げですね。それでは。

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