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外房捕鯨株式会社

千葉県和田浦の捕鯨会社からのプレスリリースです。

捕鯨問題遺聞

  昨年末は日本政府のIWCからの脱退の表明があり、僕はその前後数日プレス対応に追われました。また今回の政府の表明に関し、僕なりの所感を記録しておこうと思い立ち、「日本国政府のIWCからの脱退報道に接して」という文章を年始に書き上げ、このブログにアップしました。
 昨年末の「喧騒」は過ぎましたが、年明けもこの関連の報道に接すること多く、引き続きそれらの記事に妙な違和感を覚えてきました。僕自身はこの問題の「当事者」という意識で報道記事を読みますが、僕の「捕鯨者としての立場」や「感覚・思考」はこの世の中においては超少数派であることは(おかしなことではあるが)紛れもない事実である様に思います。そんな訳で、今日は今回様々な報道について僕自身が感じてきた違和感を「捕鯨問題遺聞(=一般によく知られていないこと)」と題して書いてみたいと思います。興味をお持ちの方は以下の「続きを読む」をクリックして読んで下さい。


(1)「国際協調主義」と「IWCからの脱退」の関係

 まずは「国際協調主義」と「IWCからの脱退=自国200カイリ内での操業=南氷洋での捕獲調査からの撤退」という論点について。多くのプレスは「IWCからの脱退は戦前の国際連盟からの脱退を想起させる行為であり、日本の国是である国際協調主義に反する。」といった論説を展開しています。しかしそれらのプレスは長年「南極海での捕獲調査は国際協調の観点から中止すべし」と主張していたのではなかったか?その事実をさっと受け流して「南極海での捕獲調査からの撤退」という政府の決断を論説の中では矮小化し、殊更「脱退は国際協調に反する」と主張することは、僕の眼には「信頼するに足りない人間の戯言」に映ります。例えば12月27日の朝日新聞の社説では「批判に耳を傾けた結果として調査捕鯨をやめ、南極海から撤退するというのであれば、対話の糸口になるだろう。」として、一応は論理的な整合性は保たれてはいます。しかし、まずは「評価すべき点は評価する」と書くのが正常な人間の姿勢なのではないか?彼等は過去において数十年「南極からの撤退」しない政府を非難し続けてきたのだから。そんな想いは残りますね。また「(脱退しないで)南極海から撤退し、それを対話の糸口に」という(一見建設的な)主張ですが、ここ30余年不毛な論争を重ねてきたIWCの歴史を、彼等はどう評価するのか?僕自身はこの長年に渡る歴代の政府の担当官や科学者の努力と苦悩の歴史を垣間見てきただけに、かかる論説はそんな努力と苦悩を重ねてきた人々を「無能な愚か者」として侮蔑するも同然の論説と受け止め、憤慨しています。尤もそういった歴史を知らない人々に対して憤慨するのはいささか感情的に過ぎるものとは自覚はしていますが、、、。
 なお、僕自身も原則的には「国際協調」を是とする立場を採りますが、IWC内部で「水と油の関係」にある「無条件に捕鯨の禁止を求める勢力」と「鯨を資源として持続的に利用しようとする勢力」が汚い言葉で相互に非難し合うことが望ましい「国際協調」の有り方なのか?それは甚だ疑問だと感じています。むしろIWCを脱退した上で、操業海区を自国の200海里以内に限定し、自国民の(捕鯨)行為が不毛な国際紛争の対象にならない様にすることも、ひとつの「国際協調」の有り方なのではないか?僕はそう考えています。だって、我々の社会における人間関係においても「敢えて喧嘩になりそうな話題を避ける」ことは「知恵」とみなされているのではないですか!「脱退」は確かに「国際協調」に反する側面はあります。しかし、それに「自国200カイリ内での操業=南氷洋での捕獲調査からの撤退」という条件を加えれば、「継続しても大した意味のない、むしろ日本の国際関係を破損しかねない」不毛な議論から一定の距離を置いて「馬鹿馬鹿しい論争に巻き込まれることを防止する」姿勢、即ち極めて「国際協調的な姿勢」とも評価できるのではないか?僕はそう考えています。特に「南極大陸は自国の領土・南極海は自国の領海」との立場を採る豪州にとって、今回の日本の南極海での捕獲調査からの撤退は大きな朗報の筈です。
 また年始にアップした文章にも書いたことですが、この国際社会においては、「命がけで捕鯨という食べ物の仕事を守ろうとする人々」も「命がけで鯨という生き物の命を守ろうとする人々」も、世界の全人口の1%には遥かに満たない超少数派です。そういった意味でこの「捕鯨問題」が国際社会を揺るがす様な深刻な問題にはなり得ない、というのが僕の持論です。もしそれが仮に国際社会を揺るがす様な大問題になったとしたら、それは前世紀のことならいざ知らず、多様にして大量な情報が流れるこのグローバル化した時代に、この世界に広がる多様な人間の生活、人間と生き物の関係に関して、人類の大半が全くもって無知であることをさらけ出すことに他ならない。そこには情報の伝達方法に何らかの問題があるとしか考えられず、特にプレスの社会的な役割が問われることになるのではないかと考えています。

(2)国際世論の動向について
 次に日本の多くのプレスが心配していた「国際世論の動向」について書きます。なお、僕自身はこの「国際世論」なるものをどう理解するかは非常に難しい問題であることを、年始にアップした文章に書きました。現況をどう理解・判断したらいいのでしょうか?
 僕の印象では海外のプレスの反応は、日本の多くのプレスが心配(期待?)していた程には、鋭くないと言うか、むしろ「鈍い」と言っていいのではないでしょうか?国家として早い時期に反応したのは、豪・NZ・仏の3ケ国。昨日の新聞では英国のメイ首相と安倍首相が「捕鯨問題を話題にしたとか、しなかったとか」が報道されましたが、それ以外の国々は概ね沈黙を保っている様です。海外のプレスの反応も一般に鈍い様ですが、昨日のニュースでニューヨークタイムズの論説に対して日本の外務省の報道官が反論のコメントを出したことが、紹介されています。年始以降の複数の日本のプレスの記事を見てきた感じでは、どうも彼等は「捕鯨問題に関する外国のプレスの報道」を一所懸命に探しており、それを紹介する方向で奮闘努力している様に見受けられます。皮肉な言い方をすれば、多くの日本のプレスは「国際世論の動向が心配・懸念される」と書いてしまった以上、それを紹介しなければならない、といった脅迫観念に取りつかれているのではないか?そんな感想をもっています。そして、そんな日本のプレスの報道が引用され、外国で報道される事例もある様ですね。
 かつて豪州・NZによって「日本の南極海での捕獲調査が条約に違反する」として国際司法裁判所に提訴され、最終的に「(日本が判決内容に基づき現行の調査計画を改善するまでの間の一時的な処置として)日本に対し南極海での現況の計画での捕獲調査を中止すること」を命じる判決が、国際司法裁判所から言い渡されたことがありました。その日僕はカリブ海のハイチにおりましたが、日本国内は大騒ぎだったそうですね。帰国後、僕は京都在住のフランス人記者から取材を受けました。その際彼は以下の様なことと言っていました。
「今回の国際司法裁判所の判決については、フランス国内では全く報道されていない。ほとんどのフランス人には興味のないことだろう。ただ、自分はフランスの(左翼系の)新聞社の依頼を受けて、取材に来た。」と。
 また、僕の方から「書いた記事を英語に訳して貰えません?僕は仏語を読めないから。」と依頼しましたが、「ごめん、僕はあまり英語が得意ではないので、勘弁してよ。」といった会話があったものと記憶しています。まあ牧歌的な逸話ですが、日本人は先進国の中では特に「外国での日本の評判」を気にする国民です。そしてそれは「国際協調」という国是にふさわしい、好ましい国民性とも言えそうです。但しこの捕鯨問題については、「心配し過ぎ」は仇となりかねない。それが僕の持論です。「国際世論」をどう理解するかは、なかなか難しい問題ですが、当事者として引き続きネットの記事なんかをウオッチしていきたいと思います。

(3)IWC脱退と鯨肉の供給量について
 日本が今年の7月にIWCから脱退した後の鯨肉の供給量ですが、現況ではその自国の200海里内の各鯨種の捕獲枠が発表されていないので、その予想は難しいです。但し、南極海を含めた公海での捕獲はゼロとなることは確定しましたから、それは確実に供給量を減らす要因となります。日本には「脱退に拠って供給量が減るのであれば、それは間違った選択である」といった論説を展開するプレスやジャーナリストは結構多い様に思います。尤も彼等が従前「南極海の捕獲調査を支持する立場」であったのなら、そういった主張は正当なものと言えそうです。しかしかつて「南極海の捕獲調査」に反対する立場だったと(僕は記憶している)人々が、この「供給量の減少は国益に反する」といった論説を展開する事例も散見され、それには唖然としています。そういった人々は結局のところ「捕鯨に反対」なのであって、そんな単純な論説では日本国内では相手にされないので、「なんでもいいから尤もらしいネタを使って、日本の捕鯨行政を批判する」ことを目的として活動しているのだと推察しています。
 今回「IWCからの脱退による供給減」を批判する人々が、かつては「日本の鯨肉需要はかくも減少しており、これではもはや日本の食文化とは言えない」と政府を批判していたりする。僕に言わせれば、「基本的には供給量=需要量」であって、需要が供給量を超えることは物理的に有り得ない。「IWCが獲らせないので、供給量が減って、その結果需要量が減っている」というのが僕の理解ですが、「需要量が少ないので、それはもはや日本の食文化ではない。故に鯨を獲らせても誰も喜ばないので、獲らせる必要はない。」と平然と書く人々がいる。そう言えば、かつてグリーンピースジャパンは「商業捕鯨を許容すると、貪欲な日本市場が鯨肉を求め、膨大な数の鯨が捕獲され、その鯨類を絶滅の危機に追い込む。」と主張していていました。日本の鯨肉需要量が小さいのだったら、捕鯨者に自由に獲らせてもどうせ売れないのでしょう?だったら日本の捕鯨者に自由に獲らせても大丈夫なのではないですか?そうですね、その内に「日本のIWC脱退により、日本の伝統的な捕鯨文化は消滅した。」なんてことを言い出す輩が登場するかもしれません。もう、無茶苦茶!僕らは鯨を「美味しい食べ物として供給する」仕事をしていますが、こんなことを書いていると、美味しいものも何だか不味くなりそうです。この辺にしておきましょう。

(4)国際協調を重視し、捕鯨はすべきではない?
 終わりに、「国際協調を重視し、捕鯨はすべきではない。」といった論説について、僕なりの所感を述べたいと思います。確かに「食料の安全保障」という観点からすると鯨肉の供給量は微量であって無視されても仕方ない程のもの。そんなものを守る為に国際社会から非難されるのは馬鹿馬鹿しい、という論説には一理も(二理も?)ある様に思います。また、「もし貴方が明日搭乗する飛行機が墜落したら」とか、当地の事情で言えば「もし和田浦のツチクジラ漁が全面的に禁止されたら」といった仮定に基づく推論は、「縁起でもない」として非難されることが多く、一般に日本人は苦手とするところですね。そういった意味でこの捕鯨問題ではかかる「縁起でもない仮定に基づく推論」が堂々と展開出来る得難き修練の場を提供しているということで、悪いことではないのかもしれませんね。
 ただ、とある検索エンジンが自動的に送ってくる記事の中で、「世界中から恨まれながらクジラを食べたい日本人が果たしてどれだけいるのか?」という表題なんかを見つけると、僕自身はやはり悲しくなりますね。上述の(1)(2)で持論を展開してみましたが、「国際世論」とは曖昧模糊としたものであって、僕自身の仕事がどの程度国際社会から「恨まれ」ているのか、正しく理解することはなかなか難しそうです。尤も僕の(捕鯨という仕事とは関係のない外国人との)個人的なお付き合いの中では「恨まれている」といった実感はありまんが、、、。
 そうですね、この「国際協調を重視し、捕鯨はすべきではない。」という命題の後段を、「現在小規模ながら実際に日本で行われている捕鯨活動を敢えて禁止すべきだ。」ともう少し具体的な命題にして、論説を展開して貰いたいと思います。確かに日本社会においては、その経済規模は微小であり、捕鯨活動は「禁止しても支障のない」ものかもしれない。でも実際に当社の様な会社が存在し、日本の辺地において人数は多くないが、実際に人々が働き、日々の生計を立てている。そしてその地域には鯨肉を「美味しい」と感じ、それを心待ちにしている人々が住んでいる。「国際協調を重視し、捕鯨はすべきではない。」という論説には一理あるでしょう。でもそれは上述の「(人数は少ないが)そういった人々の仕事や食習慣を根絶すること」を意味することをよく理解した上で論説を展開していただける様に希望しています。
 想えば、当地房州ではここ400年に渡りツチクジラが捕獲されています。戦後に国際捕鯨取締条約が起草され、1946年に米国のワシントンDCで採択されましたが、当時の国際社会は「ツチクジラ」なる鯨種の存在も、それを捕獲する産業が房州に存在することも認識していませんでした。故に条約には「ツチクジラ」なる鯨種をその管轄下の鯨種として明記せず(知らないのだから明記しようがなかった)、商業捕鯨モラトリアム後もこの房州捕鯨は途切れることなく継続されている次第です。今想えば牧歌的ですね!ところが昨今はグローバル化による膨大な数の人々のこの地球上の移動とインターネットの普及で、こんな小さな漁業(捕鯨)にまで世界の人々の視線が当てられ(?本当にそうでしょうか?)、その是非が論じられる。その存在についてメデイアを通じて国際的な議論がなされ、「国際協調主義」の下に例えば「捕鯨という営みが根絶される方向」で世界の価値観が均一化されていくと仮定する。僕の印象ではその「国際的な議論」なるもの現場の状況さえ認識していない極めて粗野なものですが、まあ世界が共通な価値観を獲得できれば、理屈の上では紛争はなくなる筈だし、悪いことはなさそうですね。確かに紛争の原因たる「捕鯨」がこの世から抹殺されれば、紛争は起こり様がありません。でもそうなったらそうなったで、動物愛護勢力は次の紛争の対象を見つけてくるのではないでしょうか?かかるNGOの活動は賛同者の尊い寄付金で運営されているので、賛同者を大きく増加させる機会、即ち大いにプレスで取り上げられる「紛争」を彼らは必要としているものと推察されるので。ここには冷徹な「経済原則」が貫かれています。
 でも僕は、まあこういった仕事をしている、無論「寿命の限られた人間」として、この世界の辺地に点在する「人間と生物の関係性」を「多様な環境の中で有史以前から培われた多様な人間と生物の関係性は、人類の知恵でもある」との立場から、それらを保存する立場を採り、微力ながら残された寿命を生きていきたいと考えています。僕の興味はどうしても、一昨年写真集「鯨と生きる」を出版された西野嘉憲さんがフィールドとする日本の南方島嶼部の多様な漁業や山間部の狩猟に向かいます。しかし捕鯨問題は「動物愛護勢力」の影響を強く受けているという意味で、水族館の鯨類の飼育の問題や、フランスのフォアグラ(既に一定の解決がなされた模様)や医療実験に使用するラットの問題等、さらには牧畜全般或いは食肉産業全般の諸問題と同根とも言えそうです。故にこういった論説を展開していく意味がそこそこはあるのではないか。僕はそう信じます。
 それと蛇足になりそうですが、「日本の鯨食文化」の現況を捕鯨の是非に結び付けて論説を展開する人々が多い様に思うが、彼等はその歴史をどの程度理解しているのか、時折疑問を感じます。日本は欧州発の大航海時代には欧州の人々と出会い、欧州の先進技術に接しました。しかし徳川幕府は鎖国政策を採り、「地球上の広大な海洋を鯨を求めて航海し、鯨から油脂分のみを回収し、それを世界の市場で売却する」捕鯨には乗り遅れました。故に江戸期の日本の捕鯨は、索餌で北上し、出産の為に南下する鯨類を、日本沿岸で待ち構えて捕獲する仕事でした。故に鯨油は勿論当時は価値の高いものでしたが、「人間が居住している場所」に鯨体が水揚げされた為、それを食品として消費する習慣が広がりました。明治期に日本は沖合の捕鯨を開始し、大正期には南極海の捕鯨に進出しますが、それは江戸期の古式捕鯨によって培われた鯨の多様な部位を利用する技術と市場に、舶来のノルウェー式の技術が併せてなされたものでした。こうして形成されていった日本の食文化とGHQのマッカーサー司令官の寛大処置で米国フラッグ下での(占領下の)日本の捕鯨母船による南極海での捕鯨事業が再開されたことが、当時の深刻な食料不足に喘いでいた戦後の日本社会を救った。その辺の経緯は理解しておいて欲しいものです。それでは。

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