年の瀬雑感―2
昨日は終日自宅にいたが、我がこころは鬱々として愉しまず。一昨日は年内の仕事納めで束の間の解放された気分を味わっていたが、昨日は秋以来抱えてきた憂鬱な気分が頭をもたげてきた様だ。今日は定置網の仕事納め。とりあえず港に顔を出した後、捕鯨の事務所に入る。想えばここ数年無邪気に楽しい年末年始を味わった試しがない。ハリーポッターの物語で使われた「移動キー」の様なものでもあれば、中部山岳の雪降る白樺の森にでも瞬時移動するのだが、混雑が予想される年末の交通機関と宿の両方の予約を敢行する元気はない。こんな時は我が街を「歩く」に限るのだが、生憎今朝は雨。とりあえず何か書いてみよう。そんな気になった。
一昨晩は近所の医院の次男坊A君の来訪を受けた。彼は思うところがあって、官立の理学部から別の官立の医学部に移り、今では癌細胞の研究に明け暮れる生活をしている。A君とは長い間会っていなかったので、思わず「大きくなったねえ!」と叫んでしまった。が、彼の研究内容についての詳細な解説に大いに感動すると共に、時の流れを実感した。彼は未だ学部の4年生なのだが、「職場」と呼ぶにふさわしい人間関係の中を生きており、その「職場」の説明がこれまた圧巻であった。将に「お元気でご活躍の由、何より!」という感覚ではあるが、そんな気力と知力と体力に溢れる彼が「彼なりの大きな不安」を抱えている様にも感じられた。
「自己実現」。これは平成の世を象徴する言葉と言えるかもしれない。田舎生まれの僕の感覚では、昭和は葡萄の房の様に繋がって生きていた人々が徐々にその束縛から解放されていった時代であった。「自由である個」に対しては、「葡萄の房」の外側に存在する「遠慮のない市場経済なるドグマ」により、必然的に「個の力量」が問われる。「個の内なる声」に従順に従うことが是とされている様に思う。しかるにその個の「内なる声」に導かれた多種多様な人々は、己が人生に対しどの様な実感を持っているのであろうか?
人間は誕生した時から、「他者(最初は母親)との関係」において生きる。学説に拠ると幼児は生後9-12月頃に「自己と他者(母親等)と他の事物」を明確に区別して認識し、他者に対して自己なりの働きかけをするものらしい。そもそもその「個の内なる声」はかなりの割合で、「他者との関係」において形成されてきたことは間違いのないところだろう。加えて「個の内なる声」に導かれて「自己実現」をする職場なる「場所」。それは複数の人間から形成されている訳で、本質的にはかつて己が繋がっていた「葡萄の房」と変わりはない。そもそも人間はその「葡萄の房」に繋がることで、幼少時に感じた「安堵感」を求める存在なのではないか?想えば、僕自身も昔、社会人となって約10年の間、「葡萄の房」に繋がらせて貰って生きてきた、結構愉快に生かせて貰った、という実感がある。尤も個が「葡萄の房」に対して無意識に期待するものと、「葡萄の房」が個に求めるものの間には常にギャップが存在するものではあろうが。
とまあ、つらつらと考えながら作文をして参りましたが、実はその「葡萄の房」に繋がらせて貰えること自体、有難いことですね。でも継続してそうさせて貰うには、自分自身の行動・働きかけの質と量が問われるものです。そうですね、この世の中は甘くはない。でも人間という生き物の性質上、そんなに厳しいものであっては困りますね。この年末年始、ぼちぼちと働きながら、考えていきましょう。本当は雪を見に、雪の中を散歩しに行きたい気持ちもあるんですが、その辺は時々刻々と変わる「我が内なる声」に従いましょう。
ここまで書いて少し気が晴れました。雨は小降りとなっています。天気図は良くないが、午後には雨は上がりそうです。それでは。
一昨晩は近所の医院の次男坊A君の来訪を受けた。彼は思うところがあって、官立の理学部から別の官立の医学部に移り、今では癌細胞の研究に明け暮れる生活をしている。A君とは長い間会っていなかったので、思わず「大きくなったねえ!」と叫んでしまった。が、彼の研究内容についての詳細な解説に大いに感動すると共に、時の流れを実感した。彼は未だ学部の4年生なのだが、「職場」と呼ぶにふさわしい人間関係の中を生きており、その「職場」の説明がこれまた圧巻であった。将に「お元気でご活躍の由、何より!」という感覚ではあるが、そんな気力と知力と体力に溢れる彼が「彼なりの大きな不安」を抱えている様にも感じられた。
「自己実現」。これは平成の世を象徴する言葉と言えるかもしれない。田舎生まれの僕の感覚では、昭和は葡萄の房の様に繋がって生きていた人々が徐々にその束縛から解放されていった時代であった。「自由である個」に対しては、「葡萄の房」の外側に存在する「遠慮のない市場経済なるドグマ」により、必然的に「個の力量」が問われる。「個の内なる声」に従順に従うことが是とされている様に思う。しかるにその個の「内なる声」に導かれた多種多様な人々は、己が人生に対しどの様な実感を持っているのであろうか?
人間は誕生した時から、「他者(最初は母親)との関係」において生きる。学説に拠ると幼児は生後9-12月頃に「自己と他者(母親等)と他の事物」を明確に区別して認識し、他者に対して自己なりの働きかけをするものらしい。そもそもその「個の内なる声」はかなりの割合で、「他者との関係」において形成されてきたことは間違いのないところだろう。加えて「個の内なる声」に導かれて「自己実現」をする職場なる「場所」。それは複数の人間から形成されている訳で、本質的にはかつて己が繋がっていた「葡萄の房」と変わりはない。そもそも人間はその「葡萄の房」に繋がることで、幼少時に感じた「安堵感」を求める存在なのではないか?想えば、僕自身も昔、社会人となって約10年の間、「葡萄の房」に繋がらせて貰って生きてきた、結構愉快に生かせて貰った、という実感がある。尤も個が「葡萄の房」に対して無意識に期待するものと、「葡萄の房」が個に求めるものの間には常にギャップが存在するものではあろうが。
とまあ、つらつらと考えながら作文をして参りましたが、実はその「葡萄の房」に繋がらせて貰えること自体、有難いことですね。でも継続してそうさせて貰うには、自分自身の行動・働きかけの質と量が問われるものです。そうですね、この世の中は甘くはない。でも人間という生き物の性質上、そんなに厳しいものであっては困りますね。この年末年始、ぼちぼちと働きながら、考えていきましょう。本当は雪を見に、雪の中を散歩しに行きたい気持ちもあるんですが、その辺は時々刻々と変わる「我が内なる声」に従いましょう。
ここまで書いて少し気が晴れました。雨は小降りとなっています。天気図は良くないが、午後には雨は上がりそうです。それでは。