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外房捕鯨株式会社

千葉県和田浦の捕鯨会社からのプレスリリースです。

光と色と言の葉と

   しばし(不急不要ではない)出張に出掛たりして、ばたばたと過ごしておりました。昨日は風雨激しき一日。この時期には見たことにない様な天気図。今朝釧路から電話があり、「とんでもない大時化です!この時期に雨が降るのも考えられない!」と聞きました。何だか奇妙な天候ですね!でも、また一時的に冷える予想とは言え、春が近づいていることは間違いなさそう。この週末からは杉花粉の飛ぶ量増える予想です。久しく散歩を中断していますが、明朝は歩けるでしょう!また房州の季節の移ろい等を書きたいと思いますが、実は昨冬松江在住の友人から勧められて書いたエッセイの在庫があります。友人の属する同人誌へ投稿したものですが、作品の形式等の問題で掲載を果たせず、在庫となっていました。昨年2月に我が街の「夜明けと日没の風景」を観察して書いたもの。以下に掲載してしまいましょう。それでは。


「光と色と言の葉と」                       
 関東の片隅、房総半島南部は気候の穏やかなところ。ここで育った人々はこの地を、「安房国(あわのくに)」より「房」の文字を採り、愛情を込めて「房州(ぼうしゅう)」と呼ぶ。僕の住まいは、黒潮走る太平洋の荒波に洗われる房州東岸、起伏に富んだ海辺の街にある。昨秋は巨大な台風が上陸し、前代未聞の被害をもたらした。その風雨の激しさには齢八十を超える人々さえ驚愕していた。逆に言えば長年ここで暮らしてきた人々が驚愕した程に、本来この地の風土は穏やかで住みやすいということなのであろう。

 馴れ親しんだ東京の職場を辞し、故郷に戻ってから早27年。当地の気候に似て「穏やかに生きてきた」という感覚はない。沿岸捕鯨業という零細にして特殊な家業。その運営に右往左往。持って生まれた気質もあってか、むしろ「煩悶しつつも何とか凌いできた」というのが実情に近い。それでもかかる精神を抱えながら、今まで何とかつつがなく生きてこられたのは、朝夕の散歩に拠るところが大きい。そんな実感がある。

 たかが散歩、されど散歩。歩くことは人間の基本的な動作に過ぎぬ。が、当地の風景の中を歩いて己の五官が感じ取ったもの。それらは日々こころの中を蠢くものの一部を捨象、整理してくれる効用がある様に思う。歩いた後の気分は概して爽快であり、具体的に何かをしよう、という気力を与えてくれることが多い。また同じルートを歩いていても、天候によって日々風景は異なる。近年は「光の色」の微妙な変化にこころを引かれる。

 例えば8月半ば、お盆の頃の陽光に「薄茶色の陰影」を感じる様になった。もうすぐ夏が、酷暑の鯨仕事が終わる。そう実感する。尤も「光の陰影」という言葉には本質的な矛盾があるし、「光の色」という表現も科学的には適切ではなさそうだ。Wikipediaに拠ると、「色の認識」は光源・物体・視覚の三要素から成る。つまり「色」とは己が眼前に存在するものではなく、「認識」として存在するということらしい。なるほど、と感心する。尤も僕は己が視覚をも変数として考え得る程に精緻な思考能力を欠いている。とりあえずはそれを措き、「色」を「光と物体の織り成す現象」と解釈し、散歩の風景を書いてみよう。

 我が街では太陽は水平線の彼方より登り、裏山に沈む。基本的には業務時間外に歩くので、朝夕の風景の中を歩くことが多い。夜明け前、水平線上の空は紅に染まり、雲は青灰色を呈す。その対照が何とも美しい。裏山は淡い微かな光を浴びて怪しい色彩を帯びる。昨秋の台風で照葉樹が落葉したからであろうか、今冬はその白い幹と枝が目立ち、それがさらに繊細な色を醸し出す。

 「光の色」は日の出ずる地点を中心に刻一刻と移ろう。裏山の怪しげな色彩は最初に儚く消える。水平線上の紅色の空には徐々に黄味が差し、周辺の雲の端が黄金色に輝く。やがて日が昇り、海上の空より紅黄の色彩が消え、空は淡い水色に変わる。そして群青の海と、抜ける様な青空と、白い雲と、常緑の丘陵。それら見馴れた風物に彩られた冬の一日が始まる。

 夕暮れの景色は、夜明け程には劇的ではないが、長い時間をかけて移ろう。
「山かげは 日暮れ早きに 学校の 
 まだ終わぬか 本読む声す」
昨春廃校となった我が母校は急峻な山を背負い、この若山牧水の歌の風情そのもの。故に日没は早いが、その分黄昏時は長い。夕暮れは穏やかに、静かに忍び寄る。

 歩き始める頃には日は沈んでいる。姿を消した太陽が、空を茜色に染めている。雲は優しい青灰色。残照と呼ぶに相応しい風景にこころが和む。やはり夜明けは人に生きる力を与え、夕暮れは安らぎをもたらすものなのであろう。徐々に光が失われ、下弦の月がその明度を増し、やがてその下に宵の明星が姿を現す。暗闇がこの地を支配する頃、大空には冬の星座が瞬く。かくして冬の一日が終わる。

 今冬は書くことを意識して、散歩の風景を観察。こうして朝夕の光と色の移ろいを書いてはみるものの、なかなかうまくいかない。To see is to believe. そう、見ればわかることなのだが。一方で言葉を探して使う作業を繰り返す中で、「言葉」そのものの持つ美しさに感銘を受けた。

 「残照」という言葉の何と美しいことか。文字通り、裏山に没した太陽の残した光が空を茜色に照らしているのだ、と実感する。「茜色」という言葉も美しい。その語源は上代その根を染色に使った植物「アカネ」に由来する由。僕はそれを「一日の務めを終えた黄昏時に南の空を優しく穏やかに染める色」とイメージしている。「あけぼの」「有明の月」「黄昏」「夕暮れ」「漆黒の闇」。美しい言葉が次から次へと浮かんでくる。心に浮かぶ幾多の言葉。一応はそれら本来の意味を調べながら、散歩の風景と己が心象を、文章に紡いでいく。苦悶しつつも、期限までに「ひとつの作品」と呼べそうなものにまで仕上げる。その時、不思議と救われた気分になるのだ。その「救われた気分」の余韻はしばらく残る。

 散歩して救われる。書いて救われる。遠い昔、僕は二十歳前後の多感な時期を北の街で過ごした。実は当時のアンニュイな生活を共有する友の勧めで、今僕はこの文章を書いている。長い音信不通の後の旧友からの「手紙」という形式の突然の訪れ。この「訪れ」は「救い」と言うよりも、むしろ溌剌とした喜びに近いもの。我が落莫たる精神に突如一筋の強い光が差し入った感覚であった。いずれ彼を訪ね、再会を果たしたい。そう念じている。

 「何時か冬の日に、ひとり電車に乗って、山陰の海辺の駅で下車。そこで旧友に会いたいと想う。雪が舞う静かな小道を共に歩きたい。小さな居酒屋の暖簾をくぐって人心地付く。幽かに日本海の潮騒が聞こえる。淡い橙の灯りの下で、互いに老いた笑顔を交換しながら、さらっと「本当にご無沙汰!」とでも声を上げて、長かった音信不通状態解除の祝杯を挙げたい。」

 そう、突如興が乗ってしまったのか、無意識にその再会の場面を空想し、嬉々として言葉を探す自分を今発見している。何が「我が落莫たる精神」だ!削除する?否、敢えてそのまま残しておこう。立春が過ぎてようやく訪れた冬。その冬が早くも逝かんとする暖冬の年、如月半ばの己が心象の記録として。以上

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