外房捕鯨株式会社

千葉県和田浦の捕鯨会社からのプレスリリースです。

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古刹にひとり佇めば-道東の漁業史への想い

今回は「道東の漁業史」について少々書いてみたいと思います。毎年秋に釧路に長期滞在する為、流石に血のめぐりの悪い僕にも、その凄さ、江戸期以降の日本史に対する影響の甚大さが見えてきました。「道東」とは文字通り北海道の東部の広大な地域を指します。一般的に北海道は明治期に屯田兵が開拓した農業地域という認識が未だ根強いですね。さらに道東となると「地の果て」、特に知床などは「最果ての地」というイメージが観光客を惹きつけて止まない。漁業に関しては、せいぜい蟹が美味しく、鮭が河川を遡上するところ、という感覚でしょうか。つまり江戸期の人々と営み、特に漁業活動及びその当時の日本経済に対する甚大な影響、ロシア外交史の最前線といった史実があまり浸透していないと思われます。明治以降或いは戦後の道東の漁業も壮大ではありますが、今回は敢えて江戸期の道東の漁業史について書いてみたい。かかる史実を踏まえれば北方領土問題は少々異なったものに見えてくるかもしれません。


道東の漁業をダイナミックに発展させた要因は16世紀に溯ります。当時の日本は戦国時代、商品経済の勃興期にあたります。世界史では大航海時代を切り開いたポルトガル・スペインや新興の英国やオランダがアジアに進出してきた時期。大航海時代が国際的な商品経済の隆盛をもたらしたものと考えれば、当時の日本における商品経済の勃興もそれに多分に影響されたものと考えられます。米生産の余剰が生じ、綿花及び綿製の衣類が生産され、それが日本海航路の海運により日本各地に流通し始めます。魚油や鯨油、さらには菜種油が流通し、灯火を得て日本人の夜の生活は一変します。(この時期既に突取式の組織的な捕鯨が発生しているという説もあります。)一日三食の食生活が定着します。一方で綿花や菜種(菜の花)は地味の消耗が激しく、伝統的な堆肥を畑に入れる方式では太刀打ちできません。瀬戸内海や大阪湾、熊野灘で鰯漁業が盛んになり、鰯は魚油と干鰯(ほしか)に加工され、大量の干鰯は綿花や菜種の畑に施肥されます。綿花・菜種の生産再拡大と獲りやすい近海の資源は減少により鰯が足りない。次は播州・泉州・紀州等の漁民が未開拓の漁場を求めて伊豆半島、房総半島に先進の漁具を持って移住します。著名な九十九里浜の鰯を対象とした地引網漁業が成立します。やがて上方の商人の視線は遥か北方の蝦夷ケ島に向けられます。


16世紀の蝦夷地ではアイヌの人々が主として狩猟・漁労・採集を営む生活をしていたものと推察されます。16世紀末には守護の武田家出自とされる蠣崎氏(後に松前姓と名乗る)が勃興し、後に豊臣秀吉に臣従・徳川家康に安堵され、松前藩が成立します。松前藩はアイヌの人々との交易をその経済基盤としていました。内地の米や漆器といった商品がアイヌの人々の持つ鷹の羽・毛皮といった北方特有の物産と、松前藩が交易の場所として蝦夷地各地に設けた会所にて物々交換されます。道東においても17世紀初頭には既にこの交易は始まっていたようです。アイヌの人々も従来の自給自足的な生活から内地の商品に依存するようになりました。そして18世紀初頭には内地での干鰯の需給逼迫による価格高騰の影響で、蝦夷地各地でニシン〆粕の生産が本格化、それが内地の肥料市場を席巻します。その他、身欠ニシン・昆布・塩鮭・魚卵といった現在でも日本の食生活に欠かせない物産が大量に生産され、日本各地に流通していきます。そういった意味において、蝦夷地の水産資源は江戸期の日本経済の拡大に大いに寄与し、加えて世界に冠たる日本の食文化の原型を形成せしめるに大きな役割を担ったと考えられます。


 さらに道東及び千島列島は当時既にベーリング海峡に達していたロシアとの接触点となりました。ロシアは当時のパリの市場にて毛皮が高値で売れるクロテンを求めてシベリアを駆け抜けていったコサック達の働きにより、シベリアという広大な地域をわずか100年足らずの間に手中に収め、さらに千島列島を南下。当時既に大きな経済力を持っていた日本から慢性的に欠乏している食料を調達し、シベリア産の毛皮を販売することを考えていたとされます。当時幕府は長崎(オランダ)からの情報によりロシアの南下に関する情報を得、それを北方の脅威と考えていました。加えてクナシリ・メナシの戦い(現在の国後島及び羅臼・標津地区のアイヌ人の蜂起)が勃発します。18世紀末に幕府は民生の安定を図り北方の警備を固める為に東蝦夷を直轄地とし、その施政に乗り出します。そして1804年には東蝦夷の中心地厚岸国泰寺が建立されます。しかしながら日本史を俯瞰すればこの50年後に幕府は日米和親条約を締結。鎖国政策は崩壊し、そのまま明治維新へ。近代の世界規模の商品経済、政治的には植民地主義・帝国主義の世界に雪崩れ込む。そういった意味で江戸期は、人々の思惑はともかく、状況的に不可避であった日本の近代世界へ参入。それに向けての極めて有効な経済的・政治的準備期間であった。そう位置づけられるかもしれません。そしてそれにこの蝦夷地、道東という地域は決定的な役割を果たしたと言っても過言ではないと思うのです。


 昨年仕事に合間に夕刻厚岸の国泰寺を見学しました。山門の葵のご紋と寺社の格調高い庭園に驚愕。本殿はその背後の紅葉した木々と共に残照を浴び、とても美しかった。なんでまたこんな処にこんなものが、という想いに捕らわれました。高台に登れば、大黒島の浮かぶ厚岸湾と厚岸湖の弁天島の鳥居が見渡せ、当地がまさに天然の良港であったことを実感しました。この寺の前が当時の会所(和人とアイヌの交易場)であった訳で、郷土資料館には当時の様子を描いた絵が展示されていました。


 古刹にひとり佇めば 幕府の施政も 人々の営みも 大黒島も 弁天島の浮かぶ厚岸湖も まさに夢の如し。そんな感覚を得、その感覚が僕の漁業史への関心を強めることになりました。今回は史実に忠実たらんと心がけたこともあり、結構執筆に苦労しました。厚岸の画像を少々添付します。また書きましょう。それでは。


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