外房捕鯨株式会社

千葉県和田浦の捕鯨会社からのプレスリリースです。

早、師走も半ば

 早、師走も半ば。たまには何か書こうと思うのですが、なかなか書けません。11月に書きかけたものがそのままに。更新しないと自動的に広告が入ってしまうので、本来没にするところ、敢えてその「書きかけ」に少々加筆。掲示することにしました。ご容赦の程を。
 

秋続行中
 
 釧路より房州に戻ってきました。住み慣れた我が家へ戻る訳ではありますが、仕事が山の様に、、、尤も物理的な意味で仕事がここにある訳ではない。せねばならぬことが頭の中にあり、それをせねばならぬ環境に戻ったということの様です。こう考えますと釧路への長期出張はそんな重苦しい環境から大手を振って逸脱出来た場と言えるのかもしれません。結構楽しませて貰いました。

 房州は未だ秋続行中といった感じです。日課の田園から海岸への犬の散歩。夏は暑苦しくて眼鏡をかけないが、今は使用しています。すると今まで気付かなかったものがよく見えます。9月に発見を喜んだワレモコウがまだ咲いています。未だ秋続行中也。一方で仏の座が咲いていたりして、植物に咲く時期の幅が広いことに驚かされます。「この花の開花はこの季節」という風に決めつけていたが、房州のような穏やかな風土では同種の植物の中でも個体によって或いは日当たり等の環境によって、咲く時期はかなりばらついてくるものなのかもしれません。

地味と言えば地味ですが、この時期の田園風景もそう捨てたものではありません。少々静やかになった緑の中に、名も知れぬ薄紫や白い花が咲いている。たんぽぽの亜種と思われる花やセイタカアワダチソウが黄の彩りを担い、紅の彩りを担うのはアザミや蓼。どの花も本来あまり歓迎されない草花でありますが、それなりに少々うつろな秋の彩りを演出して様に感じられます。また面白いことに、あまりしっかりと手入れされた田の畦には見るべき花は無し。放置された荒地も見るに耐えない。一方でそこそこ手に入った田の畦や斜面が結構美しかったりして。やはり人間の営みが微妙に風景を創っていくのですね。それにしてもテレビのアナウンサーなんかが田園風景を見て、「自然が一杯ですね!」などと言うのは相変わらず。徹底的に自然を破壊した高度成長期が人間の言語感覚さえ狂わせてしまった。でも個人のレベルそれを回復することはそう難しいことではないと思います。

否、そういったものが見える場面に個人々々が別々に遭遇するのであろう。そんなものなのではと想う。くじら獲りと自己紹介すると「はあ-」「ほ-」と言われることが多いが、くじら獲りは本来食べ物屋であります。食べ物屋が鯨しか知らない、、、それでは話にならない。この年になってようやく、「食」に興味を持てる様になりました。多分自分自身の絡まった不可思議な因果の連鎖が僕をそういう方向へ導いたのかもしれない。或いは少々歳をとり、焼きが回ってきたのかもしれませんね。今回は中年男のなるようにしかならない静かな悲しみを詠った井上靖の「猟銃」なる詩を紹介して締めましょう。この詩の「白い河床」という言葉の心象が時折目に浮かびます。それでは。今回は冒頭に書いた様、書き放しになったものを再生することにしました。それでは。年末にはもう一本書きたいと考えています。

猟銃  井上靖
 なぜかその中年男は村人の顰蹙(ひんしゅく)を買い、彼に集る不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。ある冬の朝、私は、その人がかたく銃弾の腰帯(バンド)をしめ、コールテンの上衣(うわぎ)の上に猟銃を重くくいこませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天城への間道の叢(くさむら)をゆっくりと分け登ってゆくのを見たことがあった。
 それから二十余年、その人はとうに故人になったが、その時のその人の背後(うしろ)姿は今でも私の瞼(まぶた)から消えない。生きものの命断つ白い鋼鉄の器具で、あのように冷たく武装しなければならなかったものは何であったのか。私はいまでも都会の雑踏の中にある時、ふと、あの猟人(ひと)のように歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静かに、冷たく――。そして、人生の白い河床をのぞき見た中年の孤独なる精神と肉体の双方に、同時にしみ入るような重量感を捺印(スタンプ)するものは、やはりあの磨き光れる一個の猟銃をおいてはないかと思うのだ。

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