外房捕鯨株式会社

千葉県和田浦の捕鯨会社からのプレスリリースです。

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明日8月16日の解体はありません。

 本日8月15日、船は休漁です。従い明日8月16日の解体はありません。引き続き暑い日が続いていますね。

 このお盆には、13、15日と1頭づつ解体しましたが、処理場には多くの人々が見学に来ていました。お盆を故郷で過ごす当地出身の方が多いと思われますが、中にはこのブログを見て遠方から遙々来訪された方々もいるようです。という訳で処理場は大いに賑わうのですが、鯨を買ってくれる魚屋さんや加工屋さんは既にお盆の仕込みを概ね終わらせている訳で、鯨肉はあまり売れない。それでも、捕鯨の是非がかしましく論ぜられる昨今、あまり美しいとは言えない現場に人々が集まることはいいことだ。個人的にはそう思っています。

 かつて頻繁に街中で見かけた人々の労働の風景、それが現代では工場・事務所等の建物の中に引っ込んでしまい、見えない。それは「働くこと」とはどういうことかを自らの眼で学ぶ機会を子供達から奪ってしまった様にも思える。子供達は僕らが働いているのを見ているのだ。この解体場での子供達の反応から最近そんなことにも気づきました。

 昨今捕鯨問題は多様な観点から論ぜられるが、その議論のベースとして、捕鯨という産業への理解が不可欠。理解するのは、やはり実際に現場を見て、それに関わる人々の息吹を感じる必要があろう。かくして普段通り働いていれば、どんな理屈よりも雄弁に現場が物語ってくれる。この昔ながらの処理場の構造に感謝しなくてはいけませんね。この通りの夏の炎天下の仕事、もし処理場を壁で囲ってしまっていたら、暑くて仕事になりません。また臨海の処理場なので、秋に台風が到来すれば、処理場に荒波が打ち寄せる。この処理場を壁で囲ったら、建物は全て流されてしまう。やはりこのような原始的な処理場の構造にも先人のちょっとした知恵が詰まっている訳です。

 それにしても、食べ物としての鯨の世界での、日本の先人の知恵には感心させられます。欧米の捕鯨は11世紀頃に始まったとされるバスク人による背美鯨を対象とした沿岸捕鯨が起源です。当時バスクの人々は脂肪層から油を搾りつつ、赤肉類は食べていたものと推察されます。しかし15世紀に始まる大航海時代が捕鯨のあり方を大きく変えました。大型の船を得、鯨は遠洋で捕獲され、腐らない・換金出来る鯨油のみが生産されて持ち帰られ、他の部位は概ね廃棄されました。当時の欧米の人々は鯨を「油資源」と認識していたのです。欧米諸国は19世紀には北半球の大型鯨を取り尽くし、20世紀は南極海の捕鯨が始まりました。一方日本沿岸では江戸時代に古式捕鯨が始まりました。が、江戸幕府の鎖国政策、さらには大型の船の建造を禁止する法律により、日本人は大航海時代の波に乗ることなく、専ら日本の沿岸域にて鯨を捕獲し、それを油・肥料・食料として、徹底的に利用してきました。18世紀には長崎の生月にて「鯨肉調味方」という本が出版されていますが、この本ではナガス鯨を68の部位に分けて、それぞれの調理方法を著しています。そしてその鯨体の完全利用の技術と文化は明治期にも受け継がれます。江戸期の沿岸捕鯨の工場がほぼそのまま南極海に向かう母船の上に再現されます。第二次大戦後には日本は米国の占領下において、南極海に捕鯨船団を送り、その鯨肉が餓えた多くの日本人の命を救いました。こうして捕鯨の歴史を辿ってみると、いわゆる「捕鯨問題」も少し様相の変わったものに見えてくるかもしれませんね。

 「歴史認識」。この終戦記念日にはよく耳にする言葉ですね。捕鯨の問題も、その歴史を十分に理解しないと、まともな議論は出来ないものと思います。また私自身は「この壮大な捕鯨史の末端を生きている」という実感、さらには年々歳々の生活がささやかな歴史を刻んでいく、といった実感から湧いてくる一種の清涼感の様なものを心の糧として、日々ぼちぼちと生活しています。また、先人の残した「美味しい!食い物としての鯨」を探求していきたいと考えています。それでは。

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