外房捕鯨株式会社

千葉県和田浦の捕鯨会社からのプレスリリースです。

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生きている不思議 死んでいく不思議

(熊野古道 長井坂にて)
 11月に太地を訪れた際、くじらの博物館のFさんより「勇魚」の原稿執筆依頼を受けた。旅先での旧知との再会はやはり嬉しく、つい二つ返事で引き受ける。その夜、紀伊勝浦の宿にて勇魚のバックナンバーにざっと目を通し、さて困ったと頭を抱えた。この機関誌、明らかに鯨類に興味を持つ生物学者間の情報交換を目的に発行されているものだ。一方で僕は文科の出身。いかにも場違いである。
 翌朝早めに宿を出て、紀伊白浜行きの鈍行列車に乗り込む。大阪でのアポの時刻まで間があるので、しばし散歩を愉しむことにする。形状回復機能付きのジャケットをリュックサックに押し込み、見老津駅下車。長井坂と呼ばれる古道を周参見に向けて歩き出す。最初は結構な急坂、これじゃあまるで山登りだ。約1時間の急登、ようやく登り切ったところで小休止。そこで考え始める。「さて、何を書こうか」と。
 Fさんによれば、今回は「アカボウクジラ科鯨類」を特集する由。その鯨類の中でツチクジラは、房州(房総半島南端の安房国)において過去400年に渡って捕獲され、食料・油・肥料として利用されてきた鯨種である。そういった意味で、ツチクジラは歴史的に日本人にとって最も身近な「アカボウクジラ科鯨類」とは言えそうだ。そして僕自身は、今では房州にたった一社残された沿岸捕鯨会社の運営を担当する者ではある。しかし、沖に出て鯨を獲る仕事をしている訳ではなし(第一、鈍くさいは、眼は悪いはで、使いものにならない)、夏には捕獲したツチクジラの解体作業のお手伝い程度のことをしているに過ぎぬ。しかし、約束は約束、それは守らねばならぬ。場違いが故に拙文が黙殺の待遇を受けも構わない。壮大な捕鯨の世界史、江戸期の鎖国政策の影響で独自の発展を辿った日本の古式捕鯨、内房での発祥以来のツチ鯨を巡る房州の人々の営み、そしてその時の流れの片隅にて茫洋と漂う己が姿。そんなことを思い浮かべながら、由なきことを書き綴ってみようか。そんな気になってまた歩き始める。鬱蒼とした森の道を抜け、視界が開けてきた。初冬の穏やかな陽光に包まれる。眼下に真っ青な枯木灘を眺めながら、稜線上の平坦な道を快適に歩く。

(房州捕鯨の発祥を想う)
 史料に拠ると、房州の捕鯨は17世紀初頭には既に内房の勝山(現鋸南町)の地で始まっていた。西日本の古式捕鯨の発祥と概ね同じ時期だ。18世紀初頭には漁船57隻・船員5百余人・陸廻り人足70名といった相当な規模にまで組織化されていたとされる。普段は江戸に運搬する鮮魚(トビウオが主体か?)を獲っていた漁師達が夏場に限り鯨を追いかけていたものと推定される。それにしても、房州の先人達はどんな経緯でツチ鯨を獲ろうなんて思いついたのだろうか。そんなことを想像するのは愉しい。
 ツチ鯨は水深一千米から三千米の海域に生息する北太平洋の固有種とされる。一方で房州の海は深く、野島崎から沖に6-7マイルも行けば水深は一千米を越えてしまう。勝山の浮島に向けて沖から海溝が走っている由。房州捕鯨の発祥はこの海底の地形とは無縁ではなさそうだ。内房の穏やかな海、そこでの頻繁なツチ鯨との遭遇が勝山の漁師達をして、それを獲ることに掻き立てたのではないかと思う。当時の日本社会は、室町時代から続く商品経済の勃興期。当時の捕鯨の様子を想像するには、その時代背景を考慮する必要がありそうだ。快適な稜線歩きが終わった。昔の石組の残る急坂を一挙に下り、しばし和深川の清流を眺める。紀州は山が深い故か、川の流れが清らかだ。

(近世の商品経済の発展と房州捕鯨)
 日本の近世とは戦国時代以降のこと。鉄器の増産がなされ、農地の開墾が進み、農業生産力に余剰が生じ、それが広域に流通するようになった。農業と漁業は施肥・家畜への給餌という繋がりで現代でも不可分な関係にあるが、日本においてこの関係性が急速に強まったのが、この時代である。河内の木綿畑に瀬戸内海・大阪湾・熊野灘の干鰯が施肥される。木綿は網等の漁具の素材となり、漁業生産を促進する。干鰯は菜種畑にも施肥され、鰯由来の魚油、菜種油、さらには鯨油といった当時としては貴重な油脂類が生産される。
 干鰯が足らず、新しい漁場を求めて多数の関西漁民が伊豆・三浦・房総の半島に移住した。関ヶ原の合戦後には江戸に政治の中心が移り、江戸は急速な人口増加に見舞われた。しかし当時の関東は草深き未開の地であって、その人口を支えるだけの農業生産基盤がない。開墾には相当な時間はかかるが、漁業生産であれば、漁民が最先端の漁具と共に来てくれれば足りる訳で話は早い(佃煮の語源とされる江戸の佃島の事例)。それが関西からの漁民の移住にさらに拍車をかける。(余談となるが、魚介類を多食する江戸前の食文化はかかる経緯から形成され、現代では寿司・天ぷらという形式で国際社会を席巻している。)
 房総半島の場合、内房から外房の鴨川付近までの漁民は江戸に鮮魚を送る仕事をしていたらしい。故に夏に鯨を追う勝山の漁師達は、普段は当時江戸で好まれたトビウオ漁に勤しんでいたのでは、といった仮説が存在する。一方外房の九十九里浜以北では大規模な鰯漁業が勃興し、それに付随する干鰯・魚油生産で栄えた。以上の様な歴史の流れが、房州捕鯨発祥背景にあるのだろう。因みに当時江戸と伊勢間の移動時間は海路であれば順風で3日と、陸路と比較し断然早かった様だ。当時の漁民は商人であったし、海運業者でもあった。房州の漁民の間でも上方の捕鯨に関する情報は頻繁にもたらされていたものと想像する。何せ、漁民とは芭蕉の「奥の細道」序文の様な「舟の上に生涯を浮かべる、漂泊の想い止まざる」人々である。彼らが房総に移住した後も、上方の彼等の出身地との往来は頻繁であったに違いない。否、当初は「移住」という感覚は薄かったのでは、とさえ思う。
 そう考えれば17世紀初頭の発祥というのも納得がいく。マカジキ漁の突棒の技術がツチ鯨漁に応用されたとする仮説があるが、確かに既にそんな技術が房州にあれば、「渡りに舟」といった感覚だったかもしれない。
 しかし、ツチ鯨は聴覚が発達した鯨。現代の操業においても、船を近づけるとあっという間に潜ってしまうし、潜れば30-60分は浮いてこない、という難物である。さらに運よく鯨に銛が当たると、鯨はもの凄い勢いで潜水する。現況ではウインチをリリースして対応しているが、手投げ銛とそれに付いた縄だけでの捕獲は相当に難渋したのではないかと想う。さらに仕止めた鯨体を陸に運ぶのにも相当な時間がかかり、加えて鯨体を処理する浜辺は夏の炎天下。当地では地元の人々の好む柔らかい熟成した鯨肉を生産すべく、今でも捕獲後一定の時間鯨体を港内に放置し、翌早朝解体をすることが多い。この独特な柔らかい肉を好む嗜好自体も、当時の操業条件の下で形成された嗜好が現代にまで継承されている、ということではないかと思う。

(捕鯨裁判のこと)
 和深川王子神社で小休止。これから海に向かって歩く。路傍にツリガネニンジンの薄紫の花が楚々と咲いている。それにしても、今年の捕鯨の業界は、「捕鯨裁判」に暗黒に彩られた散々な年だった。この裁判の判決のことを少し考えてみよう。
 昨年3月末、国際司法裁判所は、鯨研が南極海で実施している捕獲調査計画(JARPAⅡ)の差し止めを命じる判決を発表し、各紙は一声に「日本敗訴」と報じた。しかしこの判決文の要約を読めば、それは日本の「科学調査目的での鯨を捕獲する権利」を明確に是認していることがわかる。さらに「科学調査目的で捕獲した鯨の加工(利用)義務」も確認している。「日本全面敗訴」という言葉は必ずしも当たっていない。そんな印象を持っている。但し「実は鯨肉を売りたい・食べたいから、科学調査目的で鯨を獲る」という見方をされるのは、なかなか厳しいところだ。「食べたいから鯨を獲る」という姿勢の方が余程わかりやすし、共感を得やすいのでは、と思うのだが、それが出来ないのが捕鯨業界の悩みだ。
 捕獲調査を実施する立場からの言い分もある。鯨類の資源管理は、概略目視調査によって資源量を推定し、生物調査によってその資源量の動向・妥当性を検証していく方式を採っている。「目視調査」、即ち鯨を発見してその鯨種を特定し、一定海域における鯨種毎の発見頭数を算出する調査は、商業捕鯨時代に蓄積された「船員の眼力」に全面的に依存している。素人が船のトップで鯨を捜しても、鯨を発見することは難しいだろう。この「熟練の眼力」が継承されないと、まともな資源量推定が出来なくなるのだ。
 加えて、実際に鯨を獲らねば鯨体の生物調査は出来ず、資源管理上必要なデータを入手出来ないのは自明なこと。歴史的に日本人は鯨体の多様な部位を利用してきたので、鯨体に詳しい。日本の解体技術はそれを反映した洗練されたものであって、生物調査の実施に大きく貢献しているのは明らかだ。そもそも資源の利用を前提としている場合、当該資源の状態が相当に悪くない限りおいては、無理して「非致死的な調査」の開発に血道を上げることもないのではないか?そう考えている。
 いずれにせよ、科学調査目的であれ、食べる目的であれ、鯨を獲り続けないと鯨のことはわからない。故に「資源状態に拘わらず鯨を一切獲らない世界」の到来は、人類が鯨類に関する新しい知見、それを立証するデータ、さらにはデータを獲得する為に必要な熟練の技術までも喪失することに他ならない。鯨食文化を持つ少数の国が捕鯨を続けることは、むしろ人類にとって価値の高いことではないか。これが僕の持論である。
 霊長類研究の専門家である京都大学の山際寿一先生は友人の取材に応じ、「何故日本が霊長類の研究をリードするのか。それは充実した研究施設を有する先進国の中で実際に霊長類が生息しているのは日本だけだからだ。」とおっしゃったと聞いている。鯨という生物に大変お世話になってきた我々日本人。実証的な鯨類研究を地道に続けることこそが長い目で見れば国際貢献になるのではないか。最近水産庁がマグロやウナギ資源の国際管理をリードする姿勢を示していることに希望を感じている。さらに調査母船やキャッチャーボートを使って、南極海での科学調査の範囲を鯨類以外に広げることも可能だろう。それを実施出来る国は日本しかないのだから。欧米の科学雑誌は日本の鯨類捕獲調査のデータを使った論文の掲載を拒否していると聞くが、地道に正しいことを続けていればいずれ認められる時がくる筈だ。
急に、古道歩きには似つかわしくない硬い文章になってしまいましたが、鯨類研究者の皆さんの大いなる奮闘を期待しています!

(現代ツチ鯨漁事情)
 そんな訳で捕獲調査事業の方は激震に見舞われたが、房州のツチ鯨操業の方は、国際捕鯨取締条約のリストに掲載されていない、条約管轄外の鯨種ということで、商業捕鯨モラトリアム(一時停止)以降も淡々と続けられ、現在に到っている。職業柄よく外国のプレスの取材を受けるが、「即刻捕鯨を止めなさい」という主張に対しては「神がそれを望んでおられるのですか?」と答えることにしている。「神がそれを望んでおられる。」これは第一次十字軍を扇動したローマ教皇ウルバヌス2世が発した言葉である。
 一方でツチ鯨肉の需要にいては、最近その減少を実感している。昔の「地産地消」の習慣が当然の如く生活に刷る込まれた人々の数は段々と減ってきている。加えて360円/1米ドルの為替水準と比較すれは、最近は円安に振れたとは言え、高度成長期の3倍の円高水準。日本の食品市場において、外国産の食品との競争に苦戦することは、魚も農作物も同じだ。それでも地元では「昔ながらの夏の食べ物」として結構可愛がって貰っている、と感じている。有難いことである。しんどい事も多いが、地元との関係で愉快なこともあった。
 15年間夏の漁期に続けている地元小学生を対象とした解体見学からも多くのことを学んだ。当初は地場産業の学習、体長10米の鯨体(死体ですが)を見る稀少な機会を提供する、といった目的で始めたことだが、子供達の視線が解体をする人間の作業に向けられていることに気づく。脂肪層を剥がす作業では「おじちゃん、上手だねえ。」といった反応。確かに、かつて下校途中に見られた人々の働く姿が屋内に移り、最近見えなくなったことに気づかされる。一方で鯨体から大量の血液が流出する場面では女の子達の悲鳴が上がる。女の子は顔を両手で覆うが、指の間からは鋭い視線が、、、やはり女はたくましい!鯨カツの朝食後の「大変なお仕事の成果、大事に食べさせて貰います」という子供達の言葉。血まみれの鯨体処理場は、最近は期せずして「食育の場」になった感さえある。淡々と仕事を続けていれば、時に事態は当初想定さえしなかった方向に動いて行く。そんな実感がある。そう言えば、かつてドイツのフランクフルトアルゲマイネ紙の記者が「捕鯨と食育が結びつくとは!」と唖然としていたっけ。
 ようやく海に出る。ここからは国道。自動車の往来が煩わしいが、奇岩を配した青い海岸が昼の明るい陽光にキラキラと輝き、美しい。

(生きている不思議 死んでいく不思議)
 以上、熊野古道大辺路の長井坂付近を歩きながら、ツチ鯨を対象とした房州捕鯨の歴史と現況、今年の捕鯨裁判のこと等を振り返ってみた。
 江戸時代の鎖国政策の影響で遠洋捕鯨(実質的には製油産業)には乗り遅れたものの、沿岸集落に食料としての鯨を供給することにより、その多様な部位の利用方法を開発し、それらを知恵・技術として後世に伝えた日本江戸期の古式捕鯨。房州の深い海が、深海域に生息するツチ鯨と江戸初期の内房の漁師達を頻繁に遭遇せしめた。そこから発祥したものと推定される房州捕鯨。死を迎えるまでの限られた時間、時には先人の営みに思いを馳せながら、この仕事を残して次世代に継承して貰える様に仕向けることを我がライフワークとしよう。そんな明るい(!)気分で古道歩きを楽しめた様に思う。
 こんな形で膨大な歴史の流れの中を漂う己が身を思い浮かべると、何時も決まって同じ映像が目に浮かんでくる。井上靖原作の映画「天平の甍」の一場面である。遣唐使に随行した留学僧。彼は天平の世の日本には教典の絶対数が不足していることを思い知る。そこで彼は唐に存在するあらゆる教典の筆写に己が時間の全てを費やす。そして膨大な量の筆写した教典を持って日本へ戻る遣唐使船に乗り込むが、船は嵐で沈没してしまう。僕の目に浮かぶのは、留学僧と沢山の巻物(教典)が藻の間をくぐって、ゆっくりと海底に沈んでゆくところの映像である。生きて行く中で時折ふと感じるおぼつかなさ、前途茫洋といった感覚、不安、一種の無常観の様なものかと思う。鬱で苦しんでいた頃、ジブリ映画「千と千尋の神隠し」をまだ幼い長女と観た。最近はかかる不安に苛まれる時、この映画の主題歌の一節「生きている不思議 死んでいく不思議」という言葉つぶやいてみる。何故だか不思議とほっとするのだ。「不思議」という言葉、いい言葉ですね。
もう周参見の市街、正午には駅に着くだろう。14時の特急に乗ればいい。温泉で汗を流し、ビールを一杯やろう!

(後記)
 周参見の温泉は夕方にならないと入れない由。がっかり!そこで、とりあえずは駅前の食堂に入りビールを頼む。白髪のおばちゃんが一人で黙々と魚を捌いている。おばちゃんに「トイレで着替えさせて貰いますね。」と言うと、「駅のトイレを使うたらいい。そっちの方がきれいや」と。人気の無い駅の立派なトイレで大胆に衣服を脱ぎ、濡れタオルで全身を拭い、おばちゃんの店に戻る。ビールをもう一杯、徐々に出来上がってきた。牛肉とささがけゴボウの炒めものが絶品でした! 以上

(追記)
このエッセイは、勇魚会(海棲晡乳類の会)の機関誌「勇魚」第61号(平成26年12月25日発行)に掲載されたものです。なお、この文章には3月にこのブログに掲載した「当世捕鯨問題考」と重複する表現が多々ありますが、それは年始に2本の執筆依頼を抱え、苦肉の策で、それぞれのエッセイの意図するところとの整合性を確保出来る範囲内で、概ね同じ表現をそのまま使わせていただいたことに拠ります。それでようやく約束を果たせた、辻褄を合わせたのが実情です。生来の怠惰な性質は相変わらず健在なり。尤も普段は、この性質に反して頑張ったりはしないので、「生きている不思議」をしみじみと味わえるのかもしれません。まあ、ぼちぼちとやっていきましょう。それでは。

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